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2015年の「『SGIの日』記念提言」に、
「人生はやり直せない。しかし、その歩みを他の人に『語り直す』ことで、過去の出来事に新たな意味づけを行い、『練り直す』ことができる。」
とありました。
本当にその通りだなと思います。
どんな出来事にも、「他者への貢献」という視点があれば、プラスに変えていくことができる。
 
例えば、犯罪に手を染めてしまったとしても、カルトに騙されて青春を無駄にしてしまったとしても、「他者への貢献」という視点があれば、なんらかの意味づけができる。
空き巣のプロだった人は、空き巣被害防止のプロになれるでしょう。
カルトの元信者でなければ救えない方もたくさんいるでしょう。
これは極端な例かもしれませんが、一事が万事と思います。




つい先日、少年A 神戸連続児童殺傷事件加害者の手記が発売されました。
遺族に(おそらくは出版に反対されるから)確認もせずに発売した経緯から見て、あれは「他者への貢献」という視点で書いたものではないと断じていいでしょう。
したがってあれは「意味づけ」からはほど遠いものと思います。

2002年10月12日に上智大学で行われた日本脱カルト研究会によるJDCC 第3回公開講座「カルト集団における虐待」という講座で配布されたレジュメを加筆訂正したものを読んで、ようやく謎が解けました。 エホバの証人の方々が、何故かたくなに輸血を拒むのか、という謎が。   記事を私なりに解釈して簡単にまとめると、 ・信者は教団の中枢の決めたことが絶対に正しいと盲信するように刷り込まれている ・教団の中枢の決めた教理に違背するとハルマゲドンの後に楽園に行くことができなくなる、永遠の命を手に入れることができなくなると信じさせられている ・教団の中枢が「輸血をしたら教理に違背することになる」と言っている だから輸血はできないということのようです。   聖書の言葉に背けないから、ではなく、教団中枢の「脅し」のせいで輸血ができず、死んでいかなければならないなんて...。

この記事いわく、
「仮に組織が「新しい光(教理変更の発表)が出て、輸血をしても楽園に行けるようになりました」と言えば、信者達はすぐに輸血を受け入れます。」
とのこと。

なんじゃそれ。
教団の中枢も、今更後に引けないということかもしれませんが、神の名において人をたくさん殺してきたわけで、そういう方々は「聖職者」の名に値するのか、恥を知るべきではないのか、と思います。



学生時代から、「エホバの証人の信仰者はなぜあんなに目に力がないのか、生きる喜びに満ち溢れている人を見たことがない」と思っていましたが、「もうすぐハルマゲドンだ!」という予言であおり続けられ(【参考】Yahoo知恵袋|エホバの証人は終末予言をはずしてばっかり)、常に死の恐怖にさらされていれば当然のことでしょう。
 
「世の情報は全てサタンの影響化にあるので組織の提供する情報以外必要ないとされている」というのも、信徒をバカのままに保っておきたいカルト教団のあり方そのものですね。
自分の教義が間違っていることを知っているから、それを悟られないようにしているのではないかと勘繰ってしまいたくなります。
「どんどん(他宗教の人が書いた)良書・古典を読み、俺を超えていけ! それでこそ弟子だ!」と(言外に)言っている池田先生とは正反対。


結論:「エホバの証人」の中枢は早く「新しい光」を出して、輸血を解禁すべき。あなた方は人を殺し過ぎている。
 
信者の方々へ:ここに書いてもエホバの証人の信仰者には届かないのかもしれませんが、一人でもいればと思い、書きます。
あなた方のしてきたことにはきっと意味があります。
教団を離れてもです。
無駄にはなりませんから、安心して、一刻も早く教団の中枢による呪縛から逃れてください。
今すぐ信仰を止めなくてもいいと思います。
まずは組織と距離を置きましょう。
(教団の資料以外の)勉強したいことをたくさん勉強して、社会に貢献しましょう。
あなたにしか救えない命が、きっとあると思います。
そこにあなたの生きる意味が見つかるでしょう。
それによってあなたは救われるでしょう。
あなた自身の人生を生きてください。それが私の願いです。

入会しないで信仰する方法

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 なんか、キリスト教の方が「団体には加入したくないが信仰はしたいということもある」という話をされていて、あぁ、現代はそういうこともたくさんありそうだなぁと思いました。
立場としては、ちょっとだけニュートラルな部分を残しておきたい、とか。
なんか良く分かります。
そういえば先日、学会員さんのお家に来て1時間お題目をあげたり、導師したりしてるけどまだ会員にはなりたくない、っていう方にお会いしました。
もうほとんど学会員だなぁ、と思いましたが、気持ちは分からんでもないなぁと。

 で、そういえばキリスト教では洗礼は受けてないけどミサに行く、みたいなのは比較的自由っぽい感じがして、そういうのって創価学会にはないのかなぁと思ったら、ありました。
「会友」ってやつ。
そういえばそんなのもありましたねぇ。
なんか奥さんが信心されていて、そのご家族が未入会なんだけど、理解はしてくれていて「会友」です、みたいな話はよく聞く気がします。

 でも実はこれ、創価学会のことは理解してて、何なら題目とかもあげちゃうけど、まだご本尊は頂きたくない、ちょっとまだニュートラルでいたい、って人にピッタリなんじゃないでしょうか。
しばらくそれで活動してみて、踏ん切りがついたら入会してご本尊を家にご安置する、みたいなスタイル、僕はありなんじゃないかなぁと思います。
そういうスタイルが将来的には一般的になるかも、と密かに思っています。
折伏も、いきなり入会させようとするんじゃなくて、そういう風に持っていく方がうまくいくことだってあるんじゃないでしょうか。
僕は最近折伏できてないんでエラそうなこと言えないんですけど。
(今度職場の部下に贈呈で新聞とってもらおうと思っていますが...。)
絶体絶命の悩みを抱えてる人なら、頑張って入会してもらった方がいいような気がしますが、「学会のやっていることや信仰には共感できるけど、まだそんな悩みとかないし」っていう人だったらとりあえず会友になってみて、ってイマドキの感覚からしたら自然な気がします。
だめかなぁ。

新潟県カッコイイ!!!

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このまとめを読んで、新潟県カッコイイ!!! ってなりました。
大雪で孤立する山梨県に新潟県が独自に除雪車などを投入し、救助に向かったという話。
もう、文句なくカッコイイ。
で、この前書いた記事で書いた、「災害時を想定した訓練でお互いの国に出張っていって、どれだけ効率的に多くその国の人々を救えるか、みたいな勝負」って、こんな感じになるのかなーと思いました。
人を殺しあう勝負には恨みがつきものですが、人を救いあう勝負には感謝しかないんじゃないかと。
戦場に行った兵士みたいにPTSDになったりすることも、そうそうないでしょうし。
早くそんな世界にならんもんだろうか。

宗教批判を見かけました

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まあ聞いてくれ。信仰心などはじめからなく、純粋に飯を食う為だけに聖職者となった人間からのアドバイスだって記事を読みました。
いろんな角度から批判はできると思いますが、根本的にはやはり人を強くする宗教か、人を弱くする宗教かって話ですね。
慰めを与えて楽な気にさせてあげる、ってのも大事かもしれませんが、それだけじゃ人間は弱くなっちゃいますよね。
「この苦難を乗り越えて、他の同じ苦労をしている人に希望を届けよう」って思ったら強くなりますよね。
後者が仏法者の「誓願の祈り」なわけですが、それを知らないのはかわいそうだな、と思いました。
僕からは以上です。

 えぇっと、これはちょっと過激な発言になっちゃうかもしれないんですが、学会幹部(とりあえず支部長以上とか、創価大学出身の幹部とか、創価大学の学生部幹部とか)ってSGI提言、ちゃんと身で読んでるんですかね。
戸田先生時代(当時は世の中全体が過激だったので、当然学会もちょっと過激だったみたい)の名残を引きずらずに、池田先生の志向する創価学会・SGIのあり方について行けてますかね。
「難しいから分かんねぇや」みたいな甘えとか、本当に唾棄すべきなんですけど、そんなの微塵も持ってないって言えますかね。
つまり、「先生、先生」って口だけで言ってるだけで、先生の求めているものが分からなくなっていやしませんかね。
分かんなくても、「分かろう」としてますかね。
分かんないことがあったら、分かりそうな青年部や学生部と研鑽したりしてますかね。

 こういうこと書くと、「SGI提言がちょっと分かった気になってる鼻持ちならないインテリ」とか思う人もいるかもしれませんけどね。
池田先生も不死ではないので、いつか後継の世代が創価学会・SGIを引っ張っていかなくてはならなくなりますが、その時、池田先生の志向しているものが分からない(分かろうとしない)人間がリーダーではまずいと思うんです。
それは「創価学会・SGIの使命」が分からなくなるということだからです。
そうなったら後継の人材は育てられませんし、創価学会が衰退してしまい、広宣流布など夢のまた夢になってしまいます。

 池田先生がお金で勲章や名誉教授称号を買ってるとか書いちゃってる方、ネット上で結構見かけますね。
ソースがないから必ず匿名ですけど。
あれ、絶対「池田先生だけを攻撃している」つもりで書いてると思うんですけど、実は授与した団体(国)のことも「お前らは金で称号を売り渡した恥知らずな団体(国)だ!」って高らかに批判してるってこと、気づいてますかね。
ソースもないのにそんなこと書いてるって、ものすごく恥ずかしいことだと思うんですけど。
ぜひ、ここに書かれている国の大使館あたりに電話かけて、「なんでお金で国家勲章を池田大作氏にあげたんですか?」って聞いて、その結果をネット上で公開して欲しいもんです。
金で売ったという確証があるならそれくらいできるでしょう。
できないんなら二度と書かないことをお勧めします。
恥ずかしいです。ホント。

 あぁ、しょっちゅう人権侵害で訴えられて負けてるような低俗週刊誌とかでそういうことをほのめかす記事が書かれてたりしますけど、よーく読んでください。
絶対断定してません。
だって授与した団体から強烈なクレーム来ますもんね。
相手が悪かったら廃刊になっちゃうリスクだってあるかも?
そんで、国家勲章のことは書かないですよね。
相手が悪いって分かってるんでしょう。
都合が悪いから、受章していることすら記事にしない。
つくづく卑劣な売文屋です。
あの方々、うまーく逃げてますから、乗せられないようにした方がいいですよ。
身のためです。

2014 SGI提言を読みました。

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2014年のSGI提言を読みました。

 池田先生はいつも平易な文章でご指導してくださいますが、SGI提言だけは別格。
長文でもありますし、文章もアカデミックでスラスラ読めず、僕なんかは額に汗しながら、しかしその卓越性に驚きながら、創価学会・SGIの使命の深さに身を引き締めながら毎年読んでいます。

 今年の提言のうち、安全保障の面で特になるほどと思ったのは、
「ある集団の中に排他的で暴力的な志向を強める人々がいたとしても、集団全体を敵視することは憎悪の連鎖を招くだけ」
「防災や減災を含むレジリエンス強化のための交流を進め、「友好と信頼の絆」を堅固にしていく。(中略)「平和的共存」という面を地域全体に浮かび上がらせていくーー」
「日中韓の首脳会談を」
というくだりですね。
今、日中、日韓の間を引き裂こうとする動きが大きくなってきていますが、感情論に流されそうになるなか、提言を読んで「あぁ、そうだよな」とやっと落ち着くことができました。

 たしかに勝負事で日中、日韓はいつも変にヒートアップしてしまいがちですが、もし、災害時を想定した訓練でお互いの国に出張っていって、どれだけ効率的に多くその国の人々を救えるか、みたいな勝負だったらいがみ合いはないかもしれないなぁとか想いを馳せてしまいました。
負けても「くっそ、さすがお前らんとこは凄いな、次は負けねーぞ」ってなったら、くっさい青春ドラマみたいなのに泣ける。

 そしていつも思うのが、池田先生は「SGI提言」でこそ、日蓮仏法の精神をどう現代に即して展開していくのか、ということを明快に示されている、ということ。
ともすると日蓮仏法は排他的ととられてしまうことも多いですし、実際社会不安をあおって排他的な活動をしているカルト信仰団体もあるわけですが、当然ながら日蓮大聖人自身が他者を貶めようとする精神の持ち主だったわけではなく、一筋に「四表の静謐」(今風に言えば世界の平和)を志向しておられたわけです。
その精神をどう現代に展開するかは、ひとえに現代の信仰者・実践者にかかっているわけですが、池田先生は「SGI提言」でその方向性を明快に示され、仏法者として生きる指標を与えてくださっています。
本当に不世出の、これ以上ない師匠だと思っています。
考えるだけでなく、実際に国連NGOとして動き、学校を作って多くの俊英を育てていらっしゃる人など、他にいるでしょうか。

 「創価学会はカルトだ!(ソースはネット)」とか本気で書いている方々を掲示板等でお見かけしますが、そのネットでSGI提言が簡単に手に入るわけで、ぜひこちらもどうぞお読みいただきたい、と切に思います。

お守りを切るかどうか

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「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」
という記事を読みました。

コメントを読んでいて思ったのは、「自分が信じていなくても、あえて切るようなことはしない」という感覚は確かにあるよなぁということ。
「触らぬ神に祟りなし」というやつですね。
お守りの効果なんてあんまり信じてないけど、ほのかにちょっといいことあったらいいなくらいのことは思っていて、否定的な感情もないから「切れ」と言われても切れない。
その感覚はよくわかります。

また、効果なんてあるわけないと思っていても、大切な人がくれたものだから切れないとか。
他に信じているものもないから、お手軽なお守りくらいは持っておきたいという感覚もあるのかもしれません。

ただ、「神道は宗教ではない」と思っているのは違うなぁと思いますね。
「神秘的なものを信じる」ということが「神社信仰」とイコールになっているところに、創価学会員としては強い違和感を感じます。
そういうことが愛媛玉串料訴訟事件の原因にもなっているんでしょうね。
ちなみにこの事件、愛媛県が護国神社に玉串料を出しちゃって、違憲と判断された事件です。
創価学会員からすれば当たり前でしょ? と思いますが、一般にはそう思わない人もたくさんいたからこんな事案が出てきちゃったんでしょうねぇ。

まぁその辺のステルス性というか、そういうのが神社の生き残り戦略なのかなぁとも思います。
神主さんたちも生活していかなくてはいけませんから。

宗教がなくなれば平和になる?

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なんかネットを見ていると、「宗教がなくなれば世界は平和になるのに」なんていってる人が結構いらっしゃいますよね。
匿名性が高いところですので、本音が書かれているのだと思います。
ただ、そういう発言をされる方の主張をよく読むと、宗教についての真摯に勉強されている方はあまりいらっしゃらない印象です。
大抵は他の方の意見に影響されているだけなんじゃないでしょうか。

よく槍玉にあげられるイスラム教ですが、テロ行為に走るイスラム教徒などほんのごく少数に過ぎず、ほとんどの人たちは弱い人たちを守り、他宗教の人たちと仲良くやっていくことを大切にしている、モラルの高い人たちだと分かります。
ちなみに、日蓮大聖人は徹底して非暴力を貫かれたようですし、創価学会も非暴力を推し進めている団体です。
一般のマスコミでは一切報道されていませんのでご存じない方がほとんどでしょうが、創価学会・SGIは非暴力運動を世界中で継続的に行っています。
核廃絶の署名運動では1300万人の署名を集めて国連に提出したりしています。)

戦時中の日本を含め、宗教を利用して戦争をする人間は少なからずいるようですが、一方で、世界平和を実現するために現実に行動を起こされている方の何割かは、宗教的な道義心・使命感を持って取り組んでおられるはずですし、個人的にはそういう方の方がモチベーションは高いのではないかと想像します。

「宗教がなくなれば平和になるのに」という方で、具体的に世界平和のために動いておられる方がどれだけいるでしょうか。
「平和になればいいな」と思っているだけ、言っているだけの平和念仏教になっているとしたら、まずは本を買って読んだり、信仰をされている人と仲良くなってみることから初めてみるといいのではないかと思っています。

うちの場合。

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はてな匿名ダイアリーにこんな記事(http://anond.hatelabo.jp/20130829111837)が載ってました。
僕も今の奥さん(当時はまだ彼女)を説得して、創価学会に入会してもらったクチです。
記事にもありましたが、まぁ僕の心境としても入会してくれなかったら結婚できなかっただろうなぁと思いますねぇ。
 
 もちろん、これを「創価学会の盲信者」「マインドコントロールされているかわいそうな人」とレッテルを貼って鼻で笑う方も、実態を知らないがゆえに闇雲に怖がる方もいらっしゃるのは分かるつもりです。
ただまぁ、現状認識の材料として、僕の場合はこんな感じですよ、というのをお伝えしようかと。
 
 僕は前にも書きましたが、創価中学・高校出身です。
創価中学・高校というのは、(少なくとも自分の時代は)「社会・世界に貢献できる人材に成長しよう」というのが強く打ち出された学校でした。
池田大作先生がスピーチをされたり、メッセージを寄せてくださったりするのですが、まったく宗教の話はされず、様々な偉人のエピソードを通して、読書・勉学に励み、世界に羽ばたく人材に育って、貢献していくんだよ、ということばかりおっしゃっていました。
 
 そのためか、僕の周りも私利私欲のために勉強する、などという人間はおらず、皆、熱い理想を持って勉学に励んでいたように思います。
キリスト教系の学校のようにお祈りの時間などは一切ありませんでしたので、一般的な宗教校よりもよっぽど宗教色が薄く、イギリスのパブリックスクールのようなイメージに近いんではないかと勝手に思っています。
 
 そんなわけで、僕もそれほど勉強ができる方ではなかったのですが、結構必死に勉強しました。
名著と呼ばれる文学も頑張って読み、人生観や人格を磨くことに取り組みました。
(その際、決して「創価学会」という一宗派に貢献するため、などという偏狭な気持ちは一切ありませんでした。)
その結果、今はたくさんの方に貢献できる業種につかせてもらい、夢に向かって必死に働いています。
30代で年商2億ですから、自営業としてはまぁ成功した方ということになるでしょうか。
いまだに資金繰りでひーひー言ってますが...。(´・ω・`)
 
 で、僕の実感としては、そこまでなんとか来られた原動力は、間違いなく創価中学・高校時代の池田先生の指導であり、友人たちとのつながりであり、信仰なわけですよ。
できれば一生を共にする奥さんには、その文化圏にいて欲しいわけですよ。
友人なら別の信仰を持っていてもらってもいいんです。
超仲良くなることだってできるし、深い語り合いをすることもできる。
池田先生だって多くの識者(キリスト教徒やイスラム教徒)と非常に深い対談をされ、友誼の輪を広げておられる。
でもやっぱり奥さんには普通に学会活動上の愚痴も聞いてもらいたいし、同じベースの上でつながっているという感覚がほしいわけですよ。
自分の恩師を、奥さんが外からの視点で「池田さん」とか言っちゃってたらすげぇ寂しい。
自分が大好きなアニメとか漫画を超バカにされるのより寂しい。
 
 今、うちの奥さんはそれほど学会活動を頑張っているわけではなくて、一応座談会とかには出ているという程度なんですが、それでも入会してくれてないよりは5万倍嬉しいです。
ダメか。

大分久しぶりの更新となってしまいました。
今日は宗教の話から離れて、こんな話題。
児童用防犯ブザー:配布反対、大量の脅迫電話−−町田市教委 /東京 毎日新聞
個人的には、朝鮮学校が俗に言う「反日的な」教育を行うことに対しては大変疑問があり、そういった教育内容であれば補助金などを学校が出すべきではない、という議論には首肯するところですが、さてこの問題。

防犯ブザーなんて、生徒の命に関わるものですので、ここは出してあげたらどうかと思います。
批判すべきは朝鮮学校の大人たちであって、子どもたちではありません。
子どもたちは、日本に生きている以上、守ってあげなくてはいけません。
 
その結果、二次的な話ではありますが、子どもたちは日本の味方なってくれるかもしれません。
敵愾心を持たせてなんになるでしょう。
守ってあげましょうよ、大人なんだから。
子どもに罪はないですよ。
 
そんなことを思いました。

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