2011年10月アーカイブ

今日(正確には昨日)、セミナーをしてきました。
それも2件。
祈りでなんで健康になるのかという話。
遺伝子を絡めて話しました。
結構は笑いはとれたんですが、ぽつぽつ仕掛けた笑いが滑って悲しかったです。
あと、ああいう言い方はよくなかったとか、なんで学会の信心じゃなきゃいけないのか、というところが弱かったなぁ、とか。
反省しきり。
ただまぁ、実践しないと反省もないわけで、やったこと自体はよかったなぁと。
がんばって成長して、もっといいセミナー、聞いた方が元気になるようなセミナーをできるようになりたいと思います。

ちょっと前にもう一人の祖母の3回忌がありましたので、その時の話を少し。
親戚がみんな学会員でしたので、親戚のおじさんが導師で普通に勤行をし、お料理屋さんに移動。
和気あいあいと皆で話をしました。
祖母は明るくて、大変人柄のいい人だったのを思いだしました。
大好きな祖母でした。
正直に申し上げて、他人の僧侶が来たら、変に儀式ばってしまって、あの雰囲気はなかったのではないかと思います。
自分たちの手だけで法事をするのって、いいものです。

友人葬について その2

| コメント(0)
友人葬についてネットで調べてみると、ただの憶測に基づく低俗なデマ(学会は香典を持っていく、など)の一方で、その独特のスタイルに、嫌悪感を感じられる方もいらっしゃるようです。
いくつか分類してみます。
(もちろん、網羅はできていないかもしれません)
1.学会が嫌いだから友人葬が気に食わない
2.(故人が学会員でなかった場合)故人の遺志にそぐわないのではないか
3.南無妙法蓮華経をみんなで唱和しているのが気持ち悪い、怖い
4.あまり関係のない学会員が駆り出されてきているようだ
5.導師の話がいまいち。(友人葬の正当性の話しかしない)
では、一つ一つのパターンについて、私なりの考えを書いていきたいと思います。
まず、「1.学会が嫌いだから友人葬が気に食わない」について。
これは何らかの理由で学会を嫌っておられる方が、友人葬にかこつけて文句を言っているパターン。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつ。
ちなみに、なぜ坊主が憎まれたかという話が教えて!gooに載っていました。
まぁ、これは個別に理由があり過ぎて対応しきれないのでパスです。
すみません。
次に、「2.(故人が学会員でなかった場合)故人の遺志にそぐわないのではないか」について。
これも難しい問題ですね。
でも、他の宗派の方でも少しはこういう問題、あるんじゃないでしょうか。
故人はキリスト教徒だったのに御遺族が浄土宗の僧侶呼んじゃった、とか。
正直、これに関しては「学会ならでは」の問題ではない気がします。
個人的には、ちょっと面倒な問題になりそうだったら、無宗教の葬儀にしてしまうのもいいのでは、と思っています。
今はそういう葬儀に対応してくれる葬儀社も結構ありますし。
葬儀は故人を送り出す大切な儀式だからこそ、形ではなく、「心こそ大切なれ」です。
友人葬でなければ成仏しない、なんてことは御書にも先生の指導にも書いてありません。
自分の葬儀の事であれこれ遺族同士がいさかいを起こすなんて、故人は望んでいないと思います。
次に、「3.南無妙法蓮華経をみんなで唱和しているのが気持ち悪い、怖い」について。
これは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」パターンが一部含まれている可能性がありますね。
あとは、「単にそういうのを見慣れないから」ということもあるかと思います。
まぁ、浄土真宗が多い地域などでは、結構参列者がお経を唱和されたりするそうですから、これも「学会ならでは」ということもない気がします。
そもそもお経は僧侶のためにあるのではなく、全人類のために書かれたものですから、そういう意味では、「学会員がお経を唱和している姿」はそのまま、「学会が仏教を民衆のものとして復興した姿」とも言えるわけで、学会員以外の方には大変申し訳ないんですが、ここはご容赦いただきたいところです。
「お経は僧侶だけが読んでいればいい」という考え方は、実は、何かと非難されている「葬式仏教」のあり方そのもの。
ただ、読経の声が近所に駄々漏れで迷惑、とかいうことになれば、そこは配慮しなくてはいけません。
これは教義の話ではなくて、中心者の配慮の問題です。
「教主釈尊の出生の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」です。
次に、「4.あまり関係のない学会員が駆り出されてきているようだ」について。
これ、私は駆り出された経験ないんですよね...。
(社会人になってからそれほど活動してないから?)
ただまぁ、先日の祖母の葬儀には何人か地域の学会員の方が見えていました。
どの程度お付き合いがあったのかは分かりませんが、関係ない人が大勢つめかける、ということはありませんでした。
地域によっても差があるのかもしれず、よく分かりません。
すみません。
次に、「5.導師の話がいまいち。(友人葬の正当性の話しかしない)」について。
これについては、正直私もそう思いました。
たぶんもう読む原稿がほぼ決まっていて、それを読んでいるんじゃないかなと思います。
それも、友人葬が始まった当初のものをずっと使ってるんじゃないのか、と。
もう友人葬って、ある程度定着したと思うんですよね。
だから、もう「正当性」とかの話は軽くていい時もあると思うんです。
ちょっとアップデートして、もう少し「おお!」って思うような仏教の話とか、故人の話とかをした方がいいように思います。
私の親の葬式の時は、私が導師をしようかなって思っています。

戒名について。

| コメント(0)

すこしネットで調べてみたところ、やはりお寺によっては戒名料は取らないところもあるようです。
そりゃそうですよね。
私みたいな小心者が僧侶になったら、絶対に戒名料なんてもらえません。
嘘で脅すなんてこと、無理です。
そんなトラウマ、抱えきれません。
何の罰ゲームですかって話です。
ただ、そういうお寺でも、葬儀に行ったらちゃんとお布施頂戴ね、って言うそうです。
そっちに戒名料は含まれてますよと。
僧侶も生活がかかってますから必死。
参考サイト

先日、祖母が亡くなりました。
活動家ではなかったのですが、一応学会員で、毎年寄付をしてくれていました。
(金額などは知りません。)
また、(正直に申し上げて、僕より真面目に)毎日勤行唱題をしていました。
で、初めて喪主に近い立場で友人葬をしたので、その体験を少し。
会場は、祖母の家の近くのセレモニーホールを使いました。
当然、僧侶は呼びません。
通常、僧侶を葬式に呼ぶと、25-100万円以上の戒名代がかかるそうですから、相当安上がりです。
「香典をもっていかれる」などということは当然ありませんでした。
祖母が生前お世話になった方々が多数参列され、感動的な弔辞もあり、本当にいい式だったと思います。
「戒名」について、「戒名を付けないと成仏できない」などというまやかしを言う僧侶がまだいるそうですが、驚きです。
本やネットで調べたらすぐ分かることですが、もともと戒名は、仏門に入った人が、生前にもらうものでした。
当然、お経にも「成仏には戒名が必要」などとは一言も書かれていません。
僧侶だって、そんなことは百も承知でしょう。
それを知った上で、より値段が高い戒名を売りつけようとしているわけですから、率直に申し上げて、寺をかさにきた詐欺行為ではないかと思います。
私に言わせれば、「香典を持って行っている」のは「僧侶」
単に、長年続いてきた慣習に基づく「名目」があるだけです。
もし、その収入がなければお寺を維持できないというのなら、率直にそう言うべきです。
これは商売ではなく、宗教の話。
宗教の世界には、そういう「ウソ」があってはいけないはずです。
ちょっと勉強すればすぐわかることですが、そんな嘘をついて檀家を脅し、家族を失った人からお金をむしり取るなど、完全に釈尊の遺志に反する行為です。
各宗派の宗祖も、この話を聞けば、僧侶を厳しく叱責するものと思います。
「戒名料」の問題は、教義以前の問題、言いかえれば「人間としてどうなの」という問題と言えます。

 私の同級生の一人は、かつて学会を脱会しようとしました。
当時、メールで相談を受けたんですが、どうしてそういうことになったのか、細かいいきさつは忘れてしまいました。
(私、かなり忘れっぽいもので...。)
ただ、たしか、「学会が本当に正しいのかどうか、一度離れて確かめたい」とか、そんな話だったと思います。
今、その相談を受けていたら、「この人はなんでこんなに真面目なんだろう。自分が生きにくくなるほど真面目に生きるのは大変だろうな」と思うでしょう。
脱会しなくたって、学会の活動をしなければいいだけなんですから。
その当時、私は「旅に出たいなら出たらいいと思う。そしてまたいつか、帰ってきてくれたらうれしい。」とか返事を書いたように思います。

 その同級生の場合、あまりに真面目で思いつめる性格だったためか、あるいは何か組織上のことで納得できないことがあったためか分かりませんが、「一度組織を離れる」という選択をしました。
(実は、その後どうなったのかを知りません。我ながら薄情...。反省しています。)
ただ、そこまでしないまでも、本来、学会2世、3世は「本当に学会の信仰が正しいのか」という自問自答をしなければならないのではないかと思います。
私の知る限り、学会2世・3世で「こいつは本物だな」と思う信仰者になった人間は、その試練をくぐりぬけています。
自分が子どものころから「真実だ」と教わってきたものを「疑ってみる」というのは、大変な苦痛です。
かなりの恐怖です。
しかし恐怖や自分の限界を乗り越えなければ、人間としての成長はありません。
本当の信仰をつかむこともできないものと思います。

 私の場合、その恐怖は大学1年生の時にやってきました。
家にモルモン教の宣教師の方が来られたのです。
彼らは流暢に日本語を話していましたが、きっと「仏教徒」なんて単語は知らないだろうと思った私は「I'm a buddhist.(私は仏教徒です)」とか、超カタコトの英語で話してお帰りいただいたわけですが、彼らはモルモン書を置いて行きました。
当時私は、「もしかしたら学会の信仰が一番ではないのかもしれない」という発想に恐怖しました。

 それから早くも15年。
学会活動をそれなりにして、それなりに仏教の勉強もしました。
学生時代には、大切な友人に日蓮大聖人の仏法を理解してもらうことができ、とてつもない喜び(おそらく「法悦」といわれるもの)を実感したこともあります。
(その友人は学会に入会したわけではありません。
しかし、心から理解してもらえたという確信がありました。)
そして今から数ヶ月前、仕事でなんとなく行き詰まりを感じていた時、故・中村元先生(東京大学名誉教授。創価学会員ではありません)という稀代の仏教学者の「慈悲」という本を読んだことが、起爆剤になりました。
そこには、結論として「仏教書全体が慈悲の精神を説いたものだと言い得るかもしれない。」と書かれていました。
本自体は難解な部分(特に古い引用文献)もあり、すべてを理解したとはとても言えません。
しかし、自他不二の倫理(人のために尽くすことが、実は自分の境涯を高めるために必要であるという考え方)によって、慈悲の行為が裏打ちされる、というような話を創価学会関連でない書籍で読めたことが大きかった。
そして、自他不二を意識しながら仕事をしたところ、行き詰まりがなくなり、非常にすっきりした気持ちで取り組めるようになりました。
その後、こころから「この信心はすごいな」と素直に思えるようになりました。
(なぜ仏法の諸宗の中でも日蓮大聖人の仏法が素晴らしいと思うかについては、いずれまたお話します。)
また、仏法は単に信仰というだけでなく、理屈の通った心理学、生命哲学なんだなと、すとんと納得できました。
ここにいたって、ようやく仏法の信仰が自分の血肉になってきたと感じています。

 そういったわけで、まだ若い学会2世・3世の方は、時には殻を破り、思想的な旅をしてもらいたいと思います。
その方が学会の信仰の素晴らしさがより深く分かり、血肉化できると思うからです。
またそれは、より豊かな人生を生きるために、非常に有益なことと思います。

2015年3月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

このアーカイブについて

このページには、2011年10月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年9月です。

次のアーカイブは2011年11月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

最近のコメント