「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」
という記事を読みました。
コメントを読んでいて思ったのは、「自分が信じていなくても、あえて切るようなことはしない」という感覚は確かにあるよなぁということ。
「触らぬ神に祟りなし」というやつですね。
お守りの効果なんてあんまり信じてないけど、ほのかにちょっといいことあったらいいなくらいのことは思っていて、否定的な感情もないから「切れ」と言われても切れない。
その感覚はよくわかります。
また、効果なんてあるわけないと思っていても、大切な人がくれたものだから切れないとか。
他に信じているものもないから、お手軽なお守りくらいは持っておきたいという感覚もあるのかもしれません。
ただ、「神道は宗教ではない」と思っているのは違うなぁと思いますね。
「神秘的なものを信じる」ということが「神社信仰」とイコールになっているところに、創価学会員としては強い違和感を感じます。
そういうことが愛媛玉串料訴訟事件の原因にもなっているんでしょうね。
ちなみにこの事件、愛媛県が護国神社に玉串料を出しちゃって、違憲と判断された事件です。
創価学会員からすれば当たり前でしょ? と思いますが、一般にはそう思わない人もたくさんいたからこんな事案が出てきちゃったんでしょうねぇ。
まぁその辺のステルス性というか、そういうのが神社の生き残り戦略なのかなぁとも思います。
神主さんたちも生活していかなくてはいけませんから。
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