池田先生の著作に触れての最近のブログ記事


2015年の「『SGIの日』記念提言」に、
「人生はやり直せない。しかし、その歩みを他の人に『語り直す』ことで、過去の出来事に新たな意味づけを行い、『練り直す』ことができる。」
とありました。
本当にその通りだなと思います。
どんな出来事にも、「他者への貢献」という視点があれば、プラスに変えていくことができる。
 
例えば、犯罪に手を染めてしまったとしても、カルトに騙されて青春を無駄にしてしまったとしても、「他者への貢献」という視点があれば、なんらかの意味づけができる。
空き巣のプロだった人は、空き巣被害防止のプロになれるでしょう。
カルトの元信者でなければ救えない方もたくさんいるでしょう。
これは極端な例かもしれませんが、一事が万事と思います。




つい先日、少年A 神戸連続児童殺傷事件加害者の手記が発売されました。
遺族に(おそらくは出版に反対されるから)確認もせずに発売した経緯から見て、あれは「他者への貢献」という視点で書いたものではないと断じていいでしょう。
したがってあれは「意味づけ」からはほど遠いものと思います。

勉強しなければ

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 今日の聖教新聞の池田先生の随筆で「勉学即実践、実践即勉学の鍛錬の中で、人類を照らす創価の英知を磨き上げていただきたい。」とありました。
創価学会をカルトだと言いたてる方がたくさんいらっしゃいますが、私の知る限り、カルト集団は外のことを勉強させようとはしません。
物を知らないままにしておいた方が、コントロールしやすいからです。
一方、池田先生は学園生に対し、常に「人類のために勉強しろ」と語り続けてこられました。
「創価学会のために勉強しろ」とか「私のために勉強しろ」とは一度も言われたことがありません。
「日蓮大聖人の御書だけを勉強していればよい」などということも絶対に言われません。

 創価学会の刊行物のみを勉強しているのみでは、先生の弟子として失格、とも言えます。
それでは現実社会での「実践」の役には立たず、先生のお心に応えたことには決してならないからです。

 御書や先生の指導に学びつつ、現実社会に活かせる勉学を続け、実践からさらに学ぶ中に、弟子としての道があるのだと思います。
まだ出来ることがある。
夜も更けてきましたが、まだまだ今日も楽しく頑張りたいと思います。

ぐっときました。

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今日の聖教新聞の新人間革命「求道13」に、「人は、求道心を失った時、信心の向上は止まり、慢心に侵され始める。仏法者とは、永遠の求道者であらねばならない。そこに、人間革命の道があるのだ。」とありました。
これはぐっときましたね。
特に「永遠の」というところ。
自らの臨終の時にあたって、(仏法に限らず)「来世でも頑張るぜ!」と思えるかどうか。
思えたらその人の人生は勝ちですよね。

慢心にたぶらかされた人生は醜いものです。
謙虚に学び、求道を続ける人には、何もしなくても自然に周囲の人々を奮い立たせる力があるように思います。

前者が「来世も頑張るぜ!」と思えるか。
難しいのではないかと思います。
他人と比べて自分がどうか、という相対的な価値観でしか生きていないからです。

対して後者は容易に「来世も頑張るぜ!」と思えるでしょう。
その決意に他人は関係なく、絶対的な価値観で生きているでしょうから。

私は今30代後半ですが、あと50年くらい生きるとして、瑞々しい求道心を持ち続けられるかどうか。
現時点で瑞々しいかどうかは微妙かもしれませんが、まだまだだからこそ、求道心を日々磨いていきたいと思います。
そして、「永遠に」求道を続けたいと思っています。

信仰はその道を明るく照らしてくれているように思えます。
無宗教の方を馬鹿にするわけでは決してありませんが、やはり人生の規範がないと、どうしても「道」がどこにあるか分からなくなりがちで、迷ってしまうことも多いのではないでしょうか。
信仰の本当の効用の一つは、まさにこういったところにあるのではないかと思っています。

2015年6月

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