2011年11月アーカイブ

折伏について

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 今日は(ほんのちょっと)調子が悪くて男子部の部活に行くのやめようかなとも思ったんですが、少し休んで体力が回復したので行ってきました。
本部長が折伏を決めたと部長が言ってました。
部長も折伏に挑戦中。
「折伏」というと、「人の弱みに付け込んでとんでもないものを売り込む行為」という人もいますが、結局、一番大事なところは、「それを信仰することによって、その人が精神的にも社会的にもいい状態に変われるかどうか」だと思います。
で、変われなかったら、創価学会の信仰がここまで世界的な広がりを見せることもなかったのではないかと思います。
しばらく頑張ってみて、いい方向に変われなかったら、世間体も悪いし、みんなやめちゃうと思います。
変われた実感があるからこそ、次の人にも勧める。
 幸福の科学さんとか、ものすごい創価学会を研究して真似してるなぁと思いますし、たぶんメディア戦略なんかは創価学会よりも上手くやってる部分があるんじゃないかと思いますが、それでも創価学会の広がりには遠く及ばないところを見れば、一般の方にも「何か差があるに違いない」と分かっていただけるのではないかと思います。
 当たり前ですが、折伏を決めても紹介者には創価学会から何も特典はありません。
ただ、その人のことを心から思って深く祈る中に、自身の人間としての成長(仏教的に言えば、菩薩界、仏界という、生命のいい側面の湧現)があり、それを通して出てくる強い生命力、精神力でいろいろなことを乗り越えて行けるようになるわけです。
また、そういう状態になると、時には「奇跡」と呼べるようなことも起きると。
人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている (祥伝社黄金文庫) 村上 和雄 (著), 棚次 正和 (著) にもそのあたりの事が書かれていました。
ちなみに、この本は全く創価学会とは関係のない、筑波大学の名誉教授が書いた本です。
この本、まったく引用文献とかが書かれていなくて、論文を読みなれた人間から見るとその点非常に不満なわけですが、一応この本によれば、様々な研究を総合すると、どの宗教を信仰しても、他者のために祈れば等しくいい結果が導かれるということになっているそうです。
ただ、創価学会の信仰と他の宗派の祈りの効果をガチンコで比較した論文はないわけで、そこをやったら結構統計学的に有意な差が付いてしまって面白いことになるのではないか、と個人的には思っています。
かつて戸田城聖先生もそんなことをおっしゃっていたと何かで読んだことがあるような気がしますが、詳細は忘れました。
すみません。
 最近読んだ、小乗教(上座部仏教)を信仰している先生の本には、「困って頼ってきた方に教えを伝えればいい」というようなことを書かれていましたが、それじゃぁ釈尊(釈迦)がその生涯を布教のための行脚に費やし、亡くなる時もその行脚中だったことはどう説明するのですかと。
困窮した人を横目で見て、場合によっては物理的に救うことはあったとしても、自分の信仰する、最も大切な宝物を伝えないとしたら、釈尊がその生涯を通して伝えようとしたことを意図的に無視していることにはなりませんか、と。
あぁ、今日はだいぶ脱線してしまいました。
すみません。
あぁ、そうそう。
私もがっちり題目をあげていたら、クライアントの一人の事がバーンと頭の中に浮かんできまして。
私が直接その方を折伏することはないと思いますが、いつかその方が今の苦境を乗り越えてくれるように、祈りを開始しました。
ネットを見ていると、池田先生のルーツが実は在日韓国人だ、という記載がよく見受けられます。
結論から言うと、これを言っている人たち、大変失礼ながら、恥ずべきレイシスト(人種・民族差別主義者)です。
「在日だから悪者」と言いたいのでしょうけど、ホント恥ずかしい。
海外でそんなこと言ったら、「最低のレイシスト」というレッテルを貼られて相手にされなくなるでしょう。
相手を自分と同じ「人間」と見ていない点で、原理主義テロリストにも通じる危険思想と言えると思います。
そもそも在日であるという話も根拠がない話のようですし(http://okwave.jp/qa/q4383162.html)、もしそうだったとしても、だからどうしたの、という話。
創価中学・高校で教育を受け、学生部で活動し、友達がたくさん幹部になった私ですが、耳にするのは、「世界」の平和のために貢献していきましょう、という話のみ。
在日だろうとなかろうと関係ないのです。
「韓国のため」などという宗教がこれだけ世界中に広がるはずもありません。
もう一つ興味深いこと。
池田先生のお兄さんは戦争で亡くなられているんですが、件の方々は、自分の国のために兄弟が戦って死んだ人に向かって、「お前なんて日本人じゃない」と声高に叫んでいるわけで、おそるべき偏狭さ。
しかも根拠なんて多分確認していないわけで、大変残念な考え方をされているなぁと思います。
日本人(武家の末裔)として、本当に恥ずかしいです。
少し前から、部活に参加するようになりました。
以前は仕事の都合が合わない時間帯だったので、参加していなかったんですが、最近は都合がつく曜日にいつの間にか変っていたためです。
今日は壮年部の支部長が来られていました。
この支部長、本物でした。
池田先生の御指導通りに、相手の事を祈りきって折伏に挑戦してきた方で、池田先生がよく「(本気で相手の事を思って)折伏したら、信用が残るよ」という御指導をきちんと自分のものにしていました。
「成果」のために、いやいや折伏のまねごとなんかしても信用なんか残りませんよね。
相手のために心底祈って、対話するから信用が残るわけです。
昔、学生時代に心底相手の事を祈ってから仏法対話した時、相手が理解してくれて本当にうれしかったことを思い出しました。
あの時は間違いなく菩薩界(他者のために尽くす中で、喜びを感じ、自分の「生きる力」が強くなる境涯・状態)だったんだろうなぁと思います。
今日は支部長以外にも、折伏に挑戦している人が何人も来ていました。
最近ちょっと化他行(信心していない方に仏法について語ること)をしていなかったので、本物の方に会うとなんだか恥ずかしい気がしてしまいます。
生命力が弱っているんですね。
明日からまた信心根本に仕事を頑張りたいと思います。
職場のみんなに、仏法のすごさを分かってもらいたいですしね。

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