2013年10月アーカイブ

セミナーを引き受けたら功徳が

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毎年この時期は、創価学会的になぜかセミナーがあちこちで開催される季節みたいなんですよね。
で、僕のところにも依頼が来ましたので、日程が許す限り、引き受けさせていただきました。
今回は2か所。
まぁセミナーといっても、会合の中で30分くらい時間をいただいて、お話をするだけです。
ただ、これがなかなか侮れない。

以前、お家を建てようかという話になって、1年以上探しても全然希望通りの土地がなくて困っていましたが、頑張ってセミナーを終わらせた後、何故か「あ、もう土地は見つかるわ」(実感としては「もう土地は見つかったわ」の方が近い)という感覚があり、実際そのあとしばらくして完璧に希望通りの土地が見つかった、ということがありました。

今年は、一か所スケジュール的に無理なところに何故か僕がエントリーされているという話が持ち上がり、もう仕方ない、もう他の人に頼むこともできないだろうし、研修を途中で抜けてでもセミナーを引き受けよう、と決意したところ、僕の職場で全然応募がなくて困っていた募集に、最高の方から応募がありました。
今回も、感覚としては「あぁ、セミナーを引き受けようと決意したからだなぁ」という感覚がありました。
実際はすでに断っていたものらしく、セミナーはしなくてよかったわけですが、まさに「心こそ大切なれ」で、その気持ちになっただけで功徳が頂けちゃうあたりが本当にすごいと思います。

お守りを切るかどうか

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「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」
という記事を読みました。

コメントを読んでいて思ったのは、「自分が信じていなくても、あえて切るようなことはしない」という感覚は確かにあるよなぁということ。
「触らぬ神に祟りなし」というやつですね。
お守りの効果なんてあんまり信じてないけど、ほのかにちょっといいことあったらいいなくらいのことは思っていて、否定的な感情もないから「切れ」と言われても切れない。
その感覚はよくわかります。

また、効果なんてあるわけないと思っていても、大切な人がくれたものだから切れないとか。
他に信じているものもないから、お手軽なお守りくらいは持っておきたいという感覚もあるのかもしれません。

ただ、「神道は宗教ではない」と思っているのは違うなぁと思いますね。
「神秘的なものを信じる」ということが「神社信仰」とイコールになっているところに、創価学会員としては強い違和感を感じます。
そういうことが愛媛玉串料訴訟事件の原因にもなっているんでしょうね。
ちなみにこの事件、愛媛県が護国神社に玉串料を出しちゃって、違憲と判断された事件です。
創価学会員からすれば当たり前でしょ? と思いますが、一般にはそう思わない人もたくさんいたからこんな事案が出てきちゃったんでしょうねぇ。

まぁその辺のステルス性というか、そういうのが神社の生き残り戦略なのかなぁとも思います。
神主さんたちも生活していかなくてはいけませんから。

創価学会批判について。

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ネットに悪口を書き込むヤツらに反応することはいかに不毛な行為なのか?
という記事を読みました。
著者のセブ山さんとしても創価学会の文脈で記事を紹介されるのは本意でないに違いませんが、なんかネット上の学会批判にも通じるものがあるような気がしました。

 ひどい学会員さんがいて、それで創価学会が嫌いになった、という話なら分かります。
学会員さんも真心で動いていたんじゃないかとは思いますが、結果非常識な行動になっていたとしたら、それは申し訳ないです。
池田先生は「常識が大事」と言われていますが、それを実践できなかったイタイ学会員さんだったんですね、本当に申し訳ありませんでした、という話。

 問題かなぁと思うのは、学会を在日韓国人の集まりであると何の根拠もなく人種差別と宗教差別をごちゃまぜにして荒唐無稽な批判らしき文言を並べ立てるもの。
僕、創価学園通ったし本部にも知り合いいるけど、在日韓国人の方、いませんよ???
個人的には、学会の中では韓国の存在感より、米国とか台湾、ブラジルの方が上なような気がします。
池田先生も韓国人ではないってちょっとググったらすぐ分かる。

 結局、ああいう人たちは真実がどうかなんて関係ないわけです。
ネット上で見かけて反論を試みたこともありますが、無視か、口汚く罵るのみで不毛でした。
文句が言いたいから文句を言う。
論理が破綻していようと関係ない。
攻撃することによって自分が優位に立ったような気がして、ちょっと気持ちいい。
そんなところかと思います。
あぁ恥ずかしい。
テレビでやってたら恥ずかしくてチャンネル変えちゃうレベル。

 ということで、ああいう論理の破綻したような批判にくみすると、イタイ人になっちゃうからやめましょうね、という話でした。
僕は不毛なので相手にしません。
すみません、忙しいので...。

宗教がなくなれば平和になる?

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なんかネットを見ていると、「宗教がなくなれば世界は平和になるのに」なんていってる人が結構いらっしゃいますよね。
匿名性が高いところですので、本音が書かれているのだと思います。
ただ、そういう発言をされる方の主張をよく読むと、宗教についての真摯に勉強されている方はあまりいらっしゃらない印象です。
大抵は他の方の意見に影響されているだけなんじゃないでしょうか。

よく槍玉にあげられるイスラム教ですが、テロ行為に走るイスラム教徒などほんのごく少数に過ぎず、ほとんどの人たちは弱い人たちを守り、他宗教の人たちと仲良くやっていくことを大切にしている、モラルの高い人たちだと分かります。
ちなみに、日蓮大聖人は徹底して非暴力を貫かれたようですし、創価学会も非暴力を推し進めている団体です。
一般のマスコミでは一切報道されていませんのでご存じない方がほとんどでしょうが、創価学会・SGIは非暴力運動を世界中で継続的に行っています。
核廃絶の署名運動では1300万人の署名を集めて国連に提出したりしています。)

戦時中の日本を含め、宗教を利用して戦争をする人間は少なからずいるようですが、一方で、世界平和を実現するために現実に行動を起こされている方の何割かは、宗教的な道義心・使命感を持って取り組んでおられるはずですし、個人的にはそういう方の方がモチベーションは高いのではないかと想像します。

「宗教がなくなれば平和になるのに」という方で、具体的に世界平和のために動いておられる方がどれだけいるでしょうか。
「平和になればいいな」と思っているだけ、言っているだけの平和念仏教になっているとしたら、まずは本を買って読んだり、信仰をされている人と仲良くなってみることから初めてみるといいのではないかと思っています。

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