もう一人の祖母の3回忌もありました。

ちょっと前にもう一人の祖母の3回忌がありましたので、その時の話を少し。
親戚がみんな学会員でしたので、親戚のおじさんが導師で普通に勤行をし、お料理屋さんに移動。
和気あいあいと皆で話をしました。
祖母は明るくて、大変人柄のいい人だったのを思いだしました。
大好きな祖母でした。
正直に申し上げて、他人の僧侶が来たら、変に儀式ばってしまって、あの雰囲気はなかったのではないかと思います。
自分たちの手だけで法事をするのって、いいものです。

友人葬について その2

友人葬についてネットで調べてみると、ただの憶測に基づく低俗なデマ(学会は香典を持っていく、など)の一方で、その独特のスタイルに、嫌悪感を感じられる方もいらっしゃるようです。
いくつか分類してみます。
(もちろん、網羅はできていないかもしれません)
1.学会が嫌いだから友人葬が気に食わない
2.(故人が学会員でなかった場合)故人の遺志にそぐわないのではないか
3.南無妙法蓮華経をみんなで唱和しているのが気持ち悪い、怖い
4.あまり関係のない学会員が駆り出されてきているようだ
5.導師の話がいまいち。(友人葬の正当性の話しかしない)

では、一つ一つのパターンについて、私なりの考えを書いていきたいと思います。
まず、「1.学会が嫌いだから友人葬が気に食わない」について。
これは何らかの理由で学会を嫌っておられる方が、友人葬にかこつけて文句を言っているパターン。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつ。
ちなみに、なぜ坊主が憎まれたかという話が教えて!gooに載っていました。
まぁ、これは個別に理由があり過ぎて対応しきれないのでパスです。
すみません。
次に、「2.(故人が学会員でなかった場合)故人の遺志にそぐわないのではないか」について。
これも難しい問題ですね。
でも、他の宗派の方でも少しはこういう問題、あるんじゃないでしょうか。
故人はキリスト教徒だったのに御遺族が浄土宗の僧侶呼んじゃった、とか。
正直、これに関しては「学会ならでは」の問題ではない気がします。
個人的には、ちょっと面倒な問題になりそうだったら、無宗教の葬儀にしてしまうのもいいのでは、と思っています。
今はそういう葬儀に対応してくれる葬儀社も結構ありますし。
葬儀は故人を送り出す大切な儀式だからこそ、形ではなく、「心こそ大切なれ」です。
友人葬でなければ成仏しない、なんてことは御書にも先生の指導にも書いてありません。
自分の葬儀の事であれこれ遺族同士がいさかいを起こすなんて、故人は望んでいないと思います。
次に、「3.南無妙法蓮華経をみんなで唱和しているのが気持ち悪い、怖い」について。
これは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」パターンが一部含まれている可能性がありますね。
あとは、「単にそういうのを見慣れないから」ということもあるかと思います。
まぁ、浄土真宗が多い地域などでは、結構参列者がお経を唱和されたりするそうですから、これも「学会ならでは」ということもない気がします。
そもそもお経は僧侶のためにあるのではなく、全人類のために書かれたものですから、そういう意味では、「学会員がお経を唱和している姿」はそのまま、「学会が仏教を民衆のものとして復興した姿」とも言えるわけで、学会員以外の方には大変申し訳ないんですが、ここはご容赦いただきたいところです。
「お経は僧侶だけが読んでいればいい」という考え方は、実は、何かと非難されている「葬式仏教」のあり方そのもの。
ただ、読経の声が近所に駄々漏れで迷惑、とかいうことになれば、そこは配慮しなくてはいけません。
これは教義の話ではなくて、中心者の配慮の問題です。
「教主釈尊の出生の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」です。
次に、「4.あまり関係のない学会員が駆り出されてきているようだ」について。
これ、私は駆り出された経験ないんですよね…。
(社会人になってからそれほど活動してないから?)
ただまぁ、先日の祖母の葬儀には何人か地域の学会員の方が見えていました。
どの程度お付き合いがあったのかは分かりませんが、関係ない人が大勢つめかける、ということはありませんでした。
地域によっても差があるのかもしれず、よく分かりません。
すみません。
次に、「5.導師の話がいまいち。(友人葬の正当性の話しかしない)」について。
これについては、正直私もそう思いました。
たぶんもう読む原稿がほぼ決まっていて、それを読んでいるんじゃないかなと思います。
それも、友人葬が始まった当初のものをずっと使ってるんじゃないのか、と。
もう友人葬って、ある程度定着したと思うんですよね。
だから、もう「正当性」とかの話は軽くていい時もあると思うんです。
ちょっとアップデートして、もう少し「おお!」って思うような仏教の話とか、故人の話とかをした方がいいように思います。
私の親の葬式の時は、私が導師をしようかなって思っています。

戒名について。

すこしネットで調べてみたところ、やはりお寺によっては戒名料は取らないところもあるようです。
そりゃそうですよね。
私みたいな小心者が僧侶になったら、絶対に戒名料なんてもらえません。
嘘で脅すなんてこと、無理です。
そんなトラウマ、抱えきれません。
何の罰ゲームですかって話です。
ただ、そういうお寺でも、葬儀に行ったらちゃんとお布施頂戴ね、って言うそうです。
そっちに戒名料は含まれてますよと。
僧侶も生活がかかってますから必死。
参考サイト

祖母が亡くなりました。友人葬について その1

先日、祖母が亡くなりました。
活動家ではなかったのですが、一応学会員で、毎年寄付をしてくれていました。
(金額などは知りません。)
また、(正直に申し上げて、僕より真面目に)毎日勤行唱題をしていました。

で、初めて喪主に近い立場で友人葬をしたので、その体験を少し。
会場は、祖母の家の近くのセレモニーホールを使いました。
当然、僧侶は呼びません。
通常、僧侶を葬式に呼ぶと、25-100万円以上の戒名代がかかるそうですから、相当安上がりです。
「香典をもっていかれる」などということは当然ありませんでした。
祖母が生前お世話になった方々が多数参列され、感動的な弔辞もあり、本当にいい式だったと思います。
「戒名」について、「戒名を付けないと成仏できない」などというまやかしを言う僧侶がまだいるそうですが、驚きです。
本やネットで調べたらすぐ分かることですが、もともと戒名は、仏門に入った人が、生前にもらうものでした。
当然、お経にも「成仏には戒名が必要」などとは一言も書かれていません。
僧侶だって、そんなことは百も承知でしょう。
それを知った上で、より値段が高い戒名を売りつけようとしているわけですから、率直に申し上げて、寺をかさにきた詐欺行為ではないかと思います。
私に言わせれば、「香典を持って行っている」のは「僧侶」
単に、長年続いてきた慣習に基づく「名目」があるだけです。
もし、その収入がなければお寺を維持できないというのなら、率直にそう言うべきです。
これは商売ではなく、宗教の話。
宗教の世界には、そういう「ウソ」があってはいけないはずです。
ちょっと勉強すればすぐわかることですが、そんな嘘をついて檀家を脅し、家族を失った人からお金をむしり取るなど、完全に釈尊の遺志に反する行為です。
各宗派の宗祖も、この話を聞けば、僧侶を厳しく叱責するものと思います。
「戒名料」の問題は、教義以前の問題、言いかえれば「人間としてどうなの」という問題と言えます。

かつて、脱会しようとした同級生がいました

 私の同級生の一人は、かつて学会を脱会しようとしました。
当時、メールで相談を受けたんですが、どうしてそういうことになったのか、細かいいきさつは忘れてしまいました。
(私、かなり忘れっぽいもので…。)
ただ、たしか、「学会が本当に正しいのかどうか、一度離れて確かめたい」とか、そんな話だったと思います。
今、その相談を受けていたら、「この人はなんでこんなに真面目なんだろう。自分が生きにくくなるほど真面目に生きるのは大変だろうな」と思うでしょう。
脱会しなくたって、学会の活動をしなければいいだけなんですから。
その当時、私は「旅に出たいなら出たらいいと思う。そしてまたいつか、帰ってきてくれたらうれしい。」とか返事を書いたように思います。

 その同級生の場合、あまりに真面目で思いつめる性格だったためか、あるいは何か組織上のことで納得できないことがあったためか分かりませんが、「一度組織を離れる」という選択をしました。
(実は、その後どうなったのかを知りません。我ながら薄情…。反省しています。)
ただ、そこまでしないまでも、本来、学会2世、3世は「本当に学会の信仰が正しいのか」という自問自答をしなければならないのではないかと思います。
私の知る限り、学会2世・3世で「こいつは本物だな」と思う信仰者になった人間は、その試練をくぐりぬけています。
自分が子どものころから「真実だ」と教わってきたものを「疑ってみる」というのは、大変な苦痛です。
かなりの恐怖です。
しかし恐怖や自分の限界を乗り越えなければ、人間としての成長はありません。
本当の信仰をつかむこともできないものと思います。

 私の場合、その恐怖は大学1年生の時にやってきました。
家にモルモン教の宣教師の方が来られたのです。
彼らは流暢に日本語を話していましたが、きっと「仏教徒」なんて単語は知らないだろうと思った私は「I’m a buddhist.(私は仏教徒です)」とか、超カタコトの英語で話してお帰りいただいたわけですが、彼らはモルモン書を置いて行きました。
当時私は、「もしかしたら学会の信仰が一番ではないのかもしれない」という発想に恐怖しました。

 それから早くも15年。
学会活動をそれなりにして、それなりに仏教の勉強もしました。
学生時代には、大切な友人に日蓮大聖人の仏法を理解してもらうことができ、とてつもない喜び(おそらく「法悦」といわれるもの)を実感したこともあります。
(その友人は学会に入会したわけではありません。
しかし、心から理解してもらえたという確信がありました。)
そして今から数ヶ月前、仕事でなんとなく行き詰まりを感じていた時、故・中村元先生(東京大学名誉教授。創価学会員ではありません)という稀代の仏教学者の「慈悲」という本を読んだことが、起爆剤になりました。
そこには、結論として「仏教書全体が慈悲の精神を説いたものだと言い得るかもしれない。」と書かれていました。
本自体は難解な部分(特に古い引用文献)もあり、すべてを理解したとはとても言えません。
しかし、自他不二の倫理(人のために尽くすことが、実は自分の境涯を高めるために必要であるという考え方)によって、慈悲の行為が裏打ちされる、というような話を創価学会関連でない書籍で読めたことが大きかった。
そして、自他不二を意識しながら仕事をしたところ、行き詰まりがなくなり、非常にすっきりした気持ちで取り組めるようになりました。
その後、こころから「この信心はすごいな」と素直に思えるようになりました。
(なぜ仏法の諸宗の中でも日蓮大聖人の仏法が素晴らしいと思うかについては、いずれまたお話します。)
また、仏法は単に信仰というだけでなく、理屈の通った心理学、生命哲学なんだなと、すとんと納得できました。
ここにいたって、ようやく仏法の信仰が自分の血肉になってきたと感じています。

 そういったわけで、まだ若い学会2世・3世の方は、時には殻を破り、思想的な旅をしてもらいたいと思います。
その方が学会の信仰の素晴らしさがより深く分かり、血肉化できると思うからです。
またそれは、より豊かな人生を生きるために、非常に有益なことと思います。

創価中学・高校で習ったこと。

 私が創価中学・高校に通っているとき、しょっちゅう言われたことであり、校歌にも歌われていたことがあります。
それが、「何のため」というフレーズです。
勉強するのも、情熱を燃やすのも、すべて一流の人材になって、社会に貢献するためである、と教わりました。
池田先生も学校にいらして、何度もそうスピーチしておられました。
僕が池田先生の口から信心の話を聞いたのは、覚えている限り、創価大学で「大変だったら勤行はいいから、しっかりお題目をあげなさい」とおっしゃっていた時のみと思います。
(それも、スピーチが終わった後、懇談的にお話をされているときでした。)
広宣流布(広く学会の信仰を教え広めること)が目的だとは一度も言われたことがありません。
学校に仏間はありましたが、ごくたまに使用されるだけで、キリスト教系の学校のように「祈りの時間」などは一切ありませんでした。
そのかわり、なぜ勉学に励み、本を読むのか、を思索させられたのです。

 池田先生は常に「広く、たくさんの本を読みなさい。読むなら一流の本を読みなさい。勉強しなさい。」といつも言っておられました。
そしてスピーチの中で紹介される本は、いわゆる海外の古典文学ばかりでした。
日蓮大聖人の御書はおろか、仏教徒の書いた本すらなかったように思います。
そして、ナポレオンやベートーベン、ソクラテス、プラトン、チャップリン、アベベなどの生涯を通して、いかに人生を豊かに生きるか、というお話をされていました。
「勉強するな」と言って、自分に都合のいい人間を作ろうとした独裁者とはまったく違います。

 創価学会員さんのなかにも、学園(創価中学・高校)を「学会のことすべてを是認するイエスマン、ロボットを量産する工場」かなにかと勘違いされている方がいらっしゃって辟易したりしますが、学園は学会という組織のためにあるのではありません。
建学の精神から言っても、学園は学会のためではなく、社会のためにあります。
もっと言えば、学会自体も、社会のためにあるのだと思います。
私の学園時代の友人の一人は、かつて公明党が自衛隊の海外派遣を支持した時、デモをしました。
私はその友人を誇りに思います。
自分の頭で考え、自分で行動したからです。
いろいろな考えの人間がいて、その考え方が尊重されるということこそ、その組織が健全であることの証左です。
「根本の信仰」が同一である限り、それは、「団結」と相反するどころか、本来「団結」の必須条件のはずです。
自分(もしくは組織の大多数)と違う考え方の人間を排除するような組織は硬直化し、すぐに崩壊します。
そのことをゆめゆめ忘れてはいけないと思います。

このブログの目的

はじめまして。
私は忙しさにかまけてあまり活動できていない創価学会員(創価中学・高校出身)です。

 ネットを見ていますと、いろいろなところで創価学会に対する意見を見ることができます。
批判的なものも少なくありません。
しかし一方で、聖教新聞(創価学会の機関紙)や池田大作先生の著作を読みますと、「なるほど、もう一回がんばっていい人生にしていこう、社会に貢献しよう!(必ずしも他の人に信心してもらおうということに限らない)」と決意できます。
ご本尊に向かって題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば、すがすがしい気持ちになって、大変気合が入ります。
私など、5分か10分題目を上げるだけで、直後に「よっしゃぁ! やったるで!(繰り返しになりますが、必ずしも折伏(他の人に信心を勧めること)を頑張るということではなく、人生をがんばって生きていくぞ、という意味です)」となります。
ただ大きな声で歌を歌うのとは根本的に何かが違います。

 創価学会に批判的な意見をお持ちの方々は、身近な学会員のせいでイヤな気持ちにさせられたことがあるか、そういう話を聞いたことがある、という方々かと思います。
そういう方々にとって、池田先生が数々の学術称号を授与され、世界中で顕彰されていることが理解不能なのではないかと思います。
そこで、いきおい、「学術称号を金で買っている」などという週刊誌の俗っぽい記事(よく読むとそうほのめかしているだけで根拠は一切ない。断定もしていない)を信じてしまうことになるわけです。

 池田先生は日ごろから、「学会員は常識豊かでなくてはいけない」とおっしゃっており、非常識な行動は慎まなければいけないというメッセージを出されています。
それを、受け取らずに暴走してしまう人がいるのも事実です。
本来は、学会の幹部の人がそういう暴走を止めなくてはいけないはずなのですが、本人は純粋な気持ちでやってたりするので止めづらいのかもしれません。
でも、暴走は止めなくてはいけないと思います。
そうしないと、結果的に学会の信仰や池田先生が誤解されてしまうからです。
あえて学会員的な言い回しでいえば、「法をさげる」ことになってしまうと思うのです。

 池田先生は以前から、ご自身が師匠である戸田先生に「今の学会は嫌いだ」といったことがあり、戸田先生に「ならば自分の好きな学会に変えなさい」と言われた、というお話を何度もされています。
それを「すばらしい、今の学会があるのは池田先生のおかげだ」と聞いているのでは、弟子として不十分と私は思います。
池田先生の意図は、「今の学会は(組織である以上、常に)不完全。若い世代のあなたたちが、至らない部分は修正していきなさい」ということではないかと私は思うのです。

 正直に申し上げて、私はバリバリの学会員というわけではありません。
学会活動に関しては、休眠状態に近いと申し上げて過言ではないと思います。
そして、ハンドルネームでこんなことを書いている時点でビビリです。ヘタレです。
でも、こんなことを考えている学会員もいるんだな、というのを知っていただくだけでも、意味があると思うのです。
それがこのブログの目的です。

 非定期で更新していきます。
よろしくお願いいたします。