統治体だって間違うこと、ありますよね。

10代のエホバの証人の子に「統治体(エホバの証人の中心者たちの集まり)だって人間だよね、間違うことだってあるよね」と聞いたところ、「それはあると思います」とのこと。
ただ、神が聖書の中で「統治体には従っておきなさい」と命令されているので、従っているんです、と。
 
んー。危険。
それって組織の中心者たちが決めたことは、ほとんど神の名のもとに「絶対」であるということですよね。
それは腐敗する。
 
駅前のエホバの証人の方にも「統治体が間違うこともあると思うか」と聞いたら、やはりそれはあるだろう、との返答でした。
ただ、「王国会館の中でそういうことを普通に話せる雰囲気はあるか」と聞いたら、相当言葉は濁されましたが、ないっぽい感じでした。そりゃそうですよね…。
 
で、駅前のエホバの証人の方にはちょっと突っ込んで「教理の変更がなされるということは、それまでの教理が何らかの形で間違っていた、ということですよね。では、新しい教理が示されたときに、『この教理も間違っているかもしれない』と思うことはありますか」と聞いたら、それはないと。
 
「では、排斥された方について、統治体によるその排斥の処分の決定が正しかったか、ということについてはどうか」とお話したところ、率直に「何故彼が」と思うことはあるとのことでした。
そりゃそうでしょうと思いますが、この話が伝わったら、あの方も排斥されてしまうんでしょうか…。
よく話してくれたなぁと思いますが、大丈夫かなぁ。
組織から離れることはいいことだと思いますが、家族からつまはじきにされてしまったら申し訳ない…。
 
エホバの証人の方に、統治体に対する疑問を持ってもらう際は、排斥の決定の妥当性についてどう思うか聞くのがいいかもしれません。
もちろん、相手が心を開いてくれてからの話ですけども…。

祈りとして叶わざるなし

日蓮大聖人の御所に
「祈りとして叶わざるなし」
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」
と2つのご金言があります。
これについて、このように疑問を持つ方もいらっしゃるわけですが、私の理解では、
「祈りとして叶わざるなし」:どういった次元で「叶う」かという問題は別にして、不可能はない、100%無理ということはない
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」:ただ、どういう決意で祈り、行動するかが大事だ。結果もそれに応じて変わる
ということだと思います。
 
「そっちでなんとかしてくれ」みたいな甘えた心で願いが叶っても、人間としての成長は望めず、むしろ堕落する可能性の方が高いわけで、当たり前ですよね。
 
SOKA YOUTHの関連記事
創価教学研究室(赤鬼のブログ)
一壮年部員の方が書かれているブログですが、大変参考になりました。

創価学会とエホバの証人と祈りの実証の違い

創価学会の信仰では、「世界平和のために、広宣流布のために○○を実現させてください」と祈るとバシバシ祈りがかなっていきます。
「病気を治す」だったり、「経済苦」だったり、「仕事の悩み」だったり、「進学」だったり。
私もこのブログで書いてきたとおり、そういう経験をいくつかしてきましたし、それによって信仰の確信をつかんできました。
 
今日駅前の方に、「仏教徒の私にはそういうことがいくつかあり、それを通して人間的に成長する、ということもあるが、エホバの証人にもそういうことはあるのか」と伺ったところ、そこまでドラマチックな体験ということはないが、今までに聞いた話では、「今日食べるものがなくて困っていたが、証言活動が終わって帰ってきたら、友人から食べ物が届けられていた」とか「仕事の応募先に断られてしまったが、証言活動をしていたらもっと条件のいいところが見つかって、そこで働けることになった」といった話はある、とのこと。
まぁ正直、世界の信徒の方の体験が載っている「ものみの塔」を読んでも、微妙な体験談しかなかったりするので、まぁそういう感じですよね…。
っていうかエホバの証人の方、ギリギリの生活しすぎじゃないでしょうか。
いや、創価学会にもそういうギリギリの生活されている方、たくさんいらっしゃいますけども、なれる人は正社員、なっておきましょうよ…。

エホバの証人と高等教育

駅前のエホバの証人の方に聞いた内容です。
やはりエホバの証人では、高等教育を否定しているようです。
「何のために行く必要があるのか」
「それが神に求められているのか」
みたいなところで「行く必要がないし、推奨はしない」というスタンスだそうです。
 
でもそれでは若い人の才能が伸びずにつぶれてしまうのでは、と聞いてみましたが、
それは気にされていないようでした。
まぁもうすぐハルマゲドン、と考えていたらそうなるかもしれませんよね。
気持ちは分かる気がします。
 
「大学に行くと組織から離れてしまう人が多いから行かないことを推奨している」という見方をしている人もいるが、と伺ったところ、
「誘惑が多いですし、実際そういう事例もあるので」とのこと。
 
実はこの考え方、エホバの証人の高校生には結構魅力的だと思うんですよね。
「競争社会の中であくせくしなくても、生きてはいける。
エホバの証人にはそうして生きている人がいっぱいいる。
頑張って受験勉強などしなくていい。」
そりゃ楽でしょうね。
でも、それじゃダメなんです。
 
お金が稼げる稼げないの話ではないです。
研究者なんてみんなお金ない。
お金が目的じゃないし、競争するために大学に行くわけじゃない。
いい会社に行くために大学に行くわけでもない。
だいたいその「いい会社」ってのがあと30年先に続いているかなんて、誰にも分らない時代になっています。
 
そうではなくて、力を付けて、人の役に立てる人材になるために行くんです。
 
エホバの証人の皆さん、高等教育は受けましょう。
広く世の中を知り、自分の頭で考える訓練を受けるべきです。
歳をとっていたって関係ありません。
 
私のクライアントは80歳を超えてなお、創価大学の通信教育で数学や日本の政治学などを勉強をされています。
創価大学には宗教教育はありませんし、年配の方も多く勉強されているという伝統がありますが、抵抗があるなら他の大学の通信教育でもいいでしょう。
放送大学だってあります。
 
無力では人は救えません。
人の力になることはできません。
いざというとき、それはものすごく、ものすごく辛いことです。

エホバの証人とハルマゲドンと子どもをつくらない夫婦

駅前のエホバの証人の方に、ハルマゲドンはいつ来るとお考えですか、と聞いてみました。
今まで何回も予言が外れてきてしまったこと、1914年を経験した人たちがほぼ生き残っていないことを前提に、です。
「組織としては、いつまでに来る、ということは言っていない。
だが、世の中の数々の情勢をかんがみて、間もなくだとは感じている」とのこと。
 
私たちがあと50年生きるとして、その間に起きない、という可能性は考えておられますか、という問いには、
「私自身がいつまで生きているかは分からないが、そんなに長いスパンで先ということはないだろうと考えている」
という趣旨のお話をされていました。
 
もうすぐハルマゲドンが来るから子どもは作らない、という夫婦もいらっしゃるというのは本当か、と聞いたところ
「それはあると思う」

とおっしゃっていました。
 
後から思えば、今日駅前でお話を伺ったエホバの証人のご夫婦、それで子どもつくらなかった感じでしたね…。
前に聞いたご夫婦もそうだったんだろうなぁ、たぶん…。
今になって、なんか悪いことズケズケきいちゃったみたいな、なんだか申し訳ない気持ちになってしまいました。
失敗した。
もっと相手が傷つかないような言い方なかったんか俺…。
これが相手の幸せを祈り切れていなかった結果ですね。
本当に恥ずかしい。
 
「子どもをつくる」=「幸福」ではありませんが、前回お話を伺ったご夫婦も、今日お話を伺ったご夫婦も、とてもいい人たちだっただけに、ハルマゲドンを信じたが故にお子さんを作られなかったとすると胸が痛みます。
終末思想を鞭で刷り込まれた結果なのでしょうか。
だめだ。
そんなの絶対ダメです。
エホバの証人の組織が人の未来をつぶしてしまっていることの象徴とも思います。
 
早くこっちに来てもらいたい。
それが無理でも、組織から離れて、自由に人生を謳歌してもらいたい。

エホバの証人とムチ

久しぶりにエホバの証人の方に話を聞いてきました。
まずは鞭の話。
事前にこんな記事を読んでいました。
「エホバの証人の教えの奥義」ちょー入門
1994年8月8日に日刊紙「赤旗」で報道されたせっかん死事件の記事のコピー
まぁひどい話。
 
実は身近にエホバの証人の女の子(10代)がいるので、まずはその子に聞いてみました。
「昔はひどかったと聞いていますが、今はそんなのないですよー。私もされたことはありません。」とのこと。
あ、そうなの?
エホバの証人って、そういうところは修正してきたの?
と思ったんですが、今日駅前で違う方(たぶん40代)にお話を聞いたら、「なんであなたそんなこと知ってるの?」的にビックリされつつ、ご自分はやはり鞭で打たれたことがあると。
そして超言葉を濁しながら、王国会館などでされているのを見ることはなくなったが、今も家庭では(多分割と広く)行われている、ということをおっしゃっていました。
聖書に「懲らしめの鞭」という言葉が出てくるのだそうで、ご自身が鞭で打たれたときは「やはり聖書に書かれている通りやるのだな、と熱い気持ちになった(原文ママ)」とおっしゃっていました。
 
まだやってるじゃん!
 
まぁうちだって相当怒った時に「なにしとんねん!」って軽く叩いちゃうことはありますけどね。
鞭はやりすぎでしょう。
鞭で宗教を強要するとか絶対あかん。

リニューアルしました

サイトをリニューアルしました。
コメント機能も復活しました!
承認するまで表示はされませんが、何かあれば是非投稿をお願いします。
アンチの方でも、理性的な批判、質問等には極力お答えしようと思っています。
なおその場合、私個人の考えであって、組織の公式発表とは違う可能性は十二分にある、ということはご承知いただければと思います。

「良心の危機」の最初の方読みました。

元統治体(エホバの証人の中心組織)メンバーの方が書かれた暴露本のダイジェスト版がこちらでダウンロードできます。
1/3くらい読んだんですが、まぁひどい。
勇気を出して、この本を書かれたRaymond FRANZさん、GJ。
きっと多くのものを失われたのだと思いますが、たくさんの方がこれで抜けられたでしょうから…。

内容についてですが、統治体のメンバーも人間だから、まぁそういうことも起きるよねという感じ。
みんな同じ人間ですから、当然。

問題なのは、その人間が(言葉は悪いですが)テキトーに決めた事柄で、多くの人の人生が簡単に狂わされてしまうということ。
そして信者の方々が、「統治体も人間だから間違うよね」とか「これおかしくね?」とか言えないこと。
言ったら排斥されちゃう(家族からも仲間からも仲間外れにされてろくに挨拶もできなくなる)こと。
教団のためにすべてを捧げ、教団の人としか他人のつながりがなくなってたりするのに!
これはあまりにもかわいそうすぎます。

信者の方に、「統治体も人間だから間違うこともたくさんあるんですよ」「統治体は神ではないですよ」というのを伝えるのにはどうすればいいのか…。
自分、「サタンの手先」だと思われてしまう…。(;´Д`)

日蓮正宗とエホバの証人


Yahoo! 知恵袋に日蓮正宗の方のエホバ対策の情報が載ってました。
「エホバ賊」とか書いているあたりで「うわ・・・」となりました。
読んでて自己満感がすごい。
相手に対する尊重の気持ちが微塵も感じられない。
でも、かつて創価学会も日蓮正宗の信徒団体だったときは比較的「邪宗」とかって単語がよく座談会でも聞かれたような気がしますし、こういう勢いの人もちょっとはいたような気がしますね…。(遠い目)
 
日蓮正宗から分かれて、そういったドグマティックな組織から自由になったからこそ、
第33回 SGI提言のように、池田先生も
「対話と対極に位置する狂信や不寛容の歴史を引きずる宗教の分野にあっては、ドグマを排し、自己抑制と理性に裏打ちされた対話こそ、まさに生命線であり、対話に背を向けることは、宗教の自殺行為といってよい。したがって、仏法を基調とする人間主義を推し進めるにあたって、いかに狂信や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだかろうと、この、対話こそ人間主義の”黄金律”であるという旗だけは、断じて降ろしてはならないと訴えておきたいと思います。」


と書けるようになった、ということは絶対にあると思います。
 
相手をこき下ろして黙らせて「俺カッケー!」みたいな自慰行為は「対話」とは言わないです。
恥ずかしいからやめて。

エホバの証人と監禁

えぇと、今日はエホバの証人の方に会いに行くのが遅くてもう駅前からいなくなっちゃってました。
反省。
次から早い時間に行くようにします。
誰も待ってないと思うけど記事上げられなくてごめんなさい。(;´Д`)
 
エホバの証人の組織自体はカルトですが、どうも信者の方と話していても、こちらが監禁されたりしそうな暴力的な気配はなさそうだなぁと思って調べてみました。
 
ググってみたらエホバの証人の方が、逆に監禁されたりしてるんですね。
逆だった。
異端からの改宗を迫られて、結構監禁されてる信者さんがたくさん…。
で、PTSDになったり。
かわいそうすぎる…。
西舞子バプテスト教会さんのサイトのエホバ関連ページにも
「力による(監禁、拉致)のではなく、粘り強い愛により説得しましょう。」
と書かれていて、ちょっとため息。
キリスト教の方は異端に対する憎しみがちょっとキツイんですかね…?
(西舞子バプテスト教会さんのエホバ関連ページの内容はよくまとまっていて、大変好感が持てました。
きっと私などが利用するのは本来の目的と違うのでしょうが、参考にさせていただきます。)
 
拉致監禁はダメです。絶対やってはいけない。
棄教をさせるにしても、本人の納得が大事。
人間の尊厳を踏みにじることは許されないし、そんなことをすればあなたがカルトになってしまう。
エホバの証人の熱心な信者の方は皆さん善良です。
善良であるが故に統治体のいいようにされてしまっている被害者です。
優しくしなければいけない。
「私はあなたのことが人間として大好きだが、統治体は大嫌いだ」というのが基本姿勢であるべきと思います。