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かつて、脱会しようとした同級生がいました

 私の同級生の一人は、かつて学会を脱会しようとしました。
当時、メールで相談を受けたんですが、どうしてそういうことになったのか、細かいいきさつは忘れてしまいました。
(私、かなり忘れっぽいもので…。)
ただ、たしか、「学会が本当に正しいのかどうか、一度離れて確かめたい」とか、そんな話だったと思います。
今、その相談を受けていたら、「この人はなんでこんなに真面目なんだろう。自分が生きにくくなるほど真面目に生きるのは大変だろうな」と思うでしょう。
脱会しなくたって、学会の活動をしなければいいだけなんですから。
その当時、私は「旅に出たいなら出たらいいと思う。そしてまたいつか、帰ってきてくれたらうれしい。」とか返事を書いたように思います。

 その同級生の場合、あまりに真面目で思いつめる性格だったためか、あるいは何か組織上のことで納得できないことがあったためか分かりませんが、「一度組織を離れる」という選択をしました。
(実は、その後どうなったのかを知りません。我ながら薄情…。反省しています。)
ただ、そこまでしないまでも、本来、学会2世、3世は「本当に学会の信仰が正しいのか」という自問自答をしなければならないのではないかと思います。
私の知る限り、学会2世・3世で「こいつは本物だな」と思う信仰者になった人間は、その試練をくぐりぬけています。
自分が子どものころから「真実だ」と教わってきたものを「疑ってみる」というのは、大変な苦痛です。
かなりの恐怖です。
しかし恐怖や自分の限界を乗り越えなければ、人間としての成長はありません。
本当の信仰をつかむこともできないものと思います。

 私の場合、その恐怖は大学1年生の時にやってきました。
家にモルモン教の宣教師の方が来られたのです。
彼らは流暢に日本語を話していましたが、きっと「仏教徒」なんて単語は知らないだろうと思った私は「I’m a buddhist.(私は仏教徒です)」とか、超カタコトの英語で話してお帰りいただいたわけですが、彼らはモルモン書を置いて行きました。
当時私は、「もしかしたら学会の信仰が一番ではないのかもしれない」という発想に恐怖しました。

 それから早くも15年。
学会活動をそれなりにして、それなりに仏教の勉強もしました。
学生時代には、大切な友人に日蓮大聖人の仏法を理解してもらうことができ、とてつもない喜び(おそらく「法悦」といわれるもの)を実感したこともあります。
(その友人は学会に入会したわけではありません。
しかし、心から理解してもらえたという確信がありました。)
そして今から数ヶ月前、仕事でなんとなく行き詰まりを感じていた時、故・中村元先生(東京大学名誉教授。創価学会員ではありません)という稀代の仏教学者の「慈悲」という本を読んだことが、起爆剤になりました。
そこには、結論として「仏教書全体が慈悲の精神を説いたものだと言い得るかもしれない。」と書かれていました。
本自体は難解な部分(特に古い引用文献)もあり、すべてを理解したとはとても言えません。
しかし、自他不二の倫理(人のために尽くすことが、実は自分の境涯を高めるために必要であるという考え方)によって、慈悲の行為が裏打ちされる、というような話を創価学会関連でない書籍で読めたことが大きかった。
そして、自他不二を意識しながら仕事をしたところ、行き詰まりがなくなり、非常にすっきりした気持ちで取り組めるようになりました。
その後、こころから「この信心はすごいな」と素直に思えるようになりました。
(なぜ仏法の諸宗の中でも日蓮大聖人の仏法が素晴らしいと思うかについては、いずれまたお話します。)
また、仏法は単に信仰というだけでなく、理屈の通った心理学、生命哲学なんだなと、すとんと納得できました。
ここにいたって、ようやく仏法の信仰が自分の血肉になってきたと感じています。

 そういったわけで、まだ若い学会2世・3世の方は、時には殻を破り、思想的な旅をしてもらいたいと思います。
その方が学会の信仰の素晴らしさがより深く分かり、血肉化できると思うからです。
またそれは、より豊かな人生を生きるために、非常に有益なことと思います。