「活動報告」カテゴリーアーカイブ

コロナ禍|心象記録1

新型コロナ感染症、やばいですね。
うちに来るクライアントが1/3くらいになって、売り上げも全然立たなくなって、ただでさえ厳しい経営が、このままではすぐに倒産してしまうぞ、というところまで来てしまいました。
クライアントの生活も、どんどん破壊されて行っています。

公明党の頑張りで、変な制限がかからずに、一律で10万円が配られるということになりましたが、当然ながらそれで解決するほど問題は単純ではありません。(ただ、うちのクライアントから「公明党に入れて良かった!」という声が出ていて、良かったなぁとは思っています。)

反転攻勢に出るために、あるプロジェクトを立ち上げて、取り組んでいるところです。
もうひとつ、1年くらい前から取り組んでいることが実を結べば、かなり楽になるかもしれません。

例によって「広宣流布のために、この絶体絶命の機危機を乗り越えて、体験発表のネタにしてやるぜ」という気持ちで取り組んでいますので、きっとどうにかなると思っていますが、さてどうなるか。
うまくいってからでは「どうなるかな」という不安な文章が書けなくなるので、今から時々書いておこうと思います。

週一で聖教新聞の配達をしています

毎日深夜まで働いている僕ですが、2019年の12月から日曜日の聖教新聞の配達をしています。
配達をする人がいなくなったという話を聞いて、他に若い人もいないので頑張って自分がやろうと思った次第。
どうせやるなら福運バッチリいただきたいですから、次のことを心がけるようにしています。

  • 「広宣流布の為にやっているんだ」ということを絶対に忘れないようにする
  • 「義務」でやらない。「仕方なくやっている」などと思ったら最後。愚癡が出て福運を消してしまう

1つ目と2つ目は表裏ですね。
心の底から1つ目が肯定できてないと、2つ目が達成できない。
愚痴が出てこないように、小さな声で題目を上げながら配達しています。
どうせやるなら最大効率で福運ゲットしたいですからね。

で、配達を始めた翌日に、毎日悩んでいたことがいきなり解決の方向に行ったので、本当に驚きました。(今月で決着がつくので、決着がついたら詳細について書くかもしれません。)

コロナですべての会合がなくなって久しいですが、会合がなくても毎週福運がコンスタントにゲットできるので、こりゃいいなぁと思っています。運動不足の解消にもなるし。今日も超睡眠不足ですが、配達行ってきました。これからも頑張ろうと思います。

楽をするための信仰ではない

最近、僕なんかよりもずっとちゃんと活動とか勤行・唱題をしているであろう方々の悩みを聞く機会がありました。
皆さん、本当に大変。
お気楽で楽しいだけの人生を生きてる人なんていませんでした。
でも、それってよく考えたら当たり前のことかもなと思います。

僕らが何のために進行しているかと言えば、絶対的幸福=一生成仏(今世のうちに仏になること)なわけですよ。
「仏になる」って大変なことなんですよね。爾前経(法華経以前の教え)的には、菩薩が歴劫修行を経て、ようやくなれる(あるいは現実的には無理)のが仏なわけで、そう簡単になれるわけがない。
間違っても、お気楽に遊んでたらなれる、なんてイージーなもののはずがないわけです。

大変だからこそ修行になる。
こういうことを言うと、「功徳が実際にはないことを隠すためのレトリック」とか、そういうことを言い出す方がいやしないかと思うわけですが、「祈ったら叶った」とかいうある意味で皮相的で分かりやすい「功徳」は、信心の序盤で経験済みなわけです。
一定のところまで行くと、もうそういう次元での信仰はしなくなります。
悪戦苦闘の現実の中で、いかに自身を錬磨し、境涯を高められるか、生命を鍛え上げられるか、そして自他ともの幸福を勝ち取れるかという「勝負(=修行)」をしているわけで、「ちゃんと信心しているのに楽ができないのはどういうことか」などと疑問を持つのは、むしろ「ちゃんと信心」できていない可能性すらあるように思います。

「修行」というと、一般的にはなにか出家して瞑想と読経と教学に浸ることのようなイメージがあるように思えます。人によっては激しい荒行などもイメージされるかもしれません。
しかし、御書(日蓮大聖人のお手紙)には「出家しなければ修行はできない」などとは書いていません。むしろ、健気に現実と格闘する在家信者たちを、最大に讃嘆されているように思います。

目の前の苦しい現実を、どう活かして次に進むのか、その苦闘こそが修行。
僕も頑張ります。

折伏に行ってきました。

折伏に行ってきました。
 
・僕の体験(いっぱいある)をがっちりお話し
 
・死後がどうなるかは実際なってみないと分からないし、生命についてとかは目に見えないから分からないけど、現実の世界でどうなるかは目に見えて分かる。現実を自由自在に変えていけることが、その宗教の正しさの証明になる。
 
・実は医学もそうで、「なんでこの薬が効くか分かんないけど、効くから使ってる」という薬はものすごく多い。逆に、理論上は効くはずだったのに効かなかったり、副作用が多くて治験が中止になった薬は膨大な数ある。それと同じで、実際効くかどうかが大事。
 
という話をしました。
 
宗教とは距離を置きたいということだったんですが、とりあえず「こういう人たちもいるんだ」というのを知るのは大事ではないかという点で一致して、年明けに会館で男子部のメンバーとミニ会合しませんかとお話ししたところ、「いいですね」と快諾していただけました。
 
相手を心から思っての対話。
「良かったな」とは思いましたが、「何か特別なことをした」という感覚はありません。
朝から夜中まで仕事をしているんですが、「これも広宣流布のため、家族のため、身の回りの人たちのため、ひいては世界平和のため」と思って取り組んでいるからなんだろうなと思いました。
 
日常がそうなっている。
そう気づけて良かったです。
今この瞬間からまた一歩一歩、精進していきたいと思います。

エホバの証人とムチ

久しぶりにエホバの証人の方に話を聞いてきました。
まずは鞭の話。
事前にこんな記事を読んでいました。
「エホバの証人の教えの奥義」ちょー入門
1994年8月8日に日刊紙「赤旗」で報道されたせっかん死事件の記事のコピー
まぁひどい話。
 
実は身近にエホバの証人の女の子(10代)がいるので、まずはその子に聞いてみました。
「昔はひどかったと聞いていますが、今はそんなのないですよー。私もされたことはありません。」とのこと。
あ、そうなの?
エホバの証人って、そういうところは修正してきたの?
と思ったんですが、今日駅前で違う方(たぶん40代)にお話を聞いたら、「なんであなたそんなこと知ってるの?」的にビックリされつつ、ご自分はやはり鞭で打たれたことがあると。
そして超言葉を濁しながら、王国会館などでされているのを見ることはなくなったが、今も家庭では(多分割と広く)行われている、ということをおっしゃっていました。
聖書に「懲らしめの鞭」という言葉が出てくるのだそうで、ご自身が鞭で打たれたときは「やはり聖書に書かれている通りやるのだな、と熱い気持ちになった(原文ママ)」とおっしゃっていました。
 
まだやってるじゃん!
 
まぁうちだって相当怒った時に「なにしとんねん!」って軽く叩いちゃうことはありますけどね。
鞭はやりすぎでしょう。
鞭で宗教を強要するとか絶対あかん。

駅前にいたエホバの証人の方に話を聞いてきました。

駅前で証言活動をしていたエホバの証人の方に話を聞いてきました。
突っ込んだ質問をガンガンしちゃいましたが、丁寧に答えてくれました。感謝。
僕は統治体(エホバの証人を監督する長老団)は大嫌いですが、エホバの証人の方々は人として結構好きです。
まじめで優しい人がほとんどで、怖くないですから。
統治体は平気で信者を殺す人たちなんで、断固許しませんけどね。サタンはお前らだ。

信仰の喜び

信仰を通して、どのような喜びを得ているのかを聞いてみました。
答えは次の通り。(ちょっと長かったので趣意)

  1. 聖書に書かれている人との付き合い方を実践し、仲良く過ごせることが喜び
  2. 人との付き合い方を含め、聖書に書かれている現実に当てはめるのが喜び(多分「1」よりこっちが上)
  3. 将来神の楽園に行ける(可能性がある)希望が喜び
  4. 辛いことや悲しいことがあっても、聖書の言葉に神の慰めを感じることができる喜び

現実に祈ったことがかなう喜びはめったにないとのこと。
これは「決めて祈って動いて勝つ!」「祈りとして叶わざるはなし」とかいってガンガン現実と格闘し、克服し、そこに信仰の確信を見出す創価学会員とは決定的に違うとこですね。

信仰の喜びについても、だいぶ違うようです。
例えば「4」について。
創価学会員は辛いことや悲しいことがあって一時呆然としてしまったとしても、必ずそこに意味を見出し、「変毒為薬してみせる」と誓い、前を向くのをよしとしています。また、信仰でそのような強い自分を確立することが目的でもあったりします。だいぶ違いますね。

信仰の確信

今日お話を伺ったのは、親がもともとエホバの証人という、いわゆる二世の方でした。
聖書を読む中で、いずれ終末が訪れて神の楽園が作られるという確信を持ったそうです。
まぁ集団の中にいたらそうなるんですかね。
彼らが読む聖書は改ざんがひどいと研究者たちにフルボッコされてるらしいですけどね。
僕は仏教徒ですし超絶忙しいんで学術的なところまで突っ込んで勉強する気はないですが、統治体が信徒たちに「外の世界はサタンの影響下にあるから勉強するな」とか言ってる時点で、なんか都合悪いこと隠してるでしょ。絶対。

創価学会は現実と格闘して結果を出す中で、あるいは結果を出した人の話を聞く中で「この信仰はすごい!」と確信を持つわけで、だいぶ楽に確信が持てるという点で楽ですね。
エホバの証人の人たちは一度も来たことがない終末を信じようとするわけですから、大変です。
こっち来た方がよほど楽なのになー、と思います。
信頼関係ができたらいつか言ってみよう。

輸血の話

新しい光が発せられたら

万が一、統治体が「輸血OKです」という「新しい光」が発せられたら、輸血しますか? と聞いたら、「それはあり得ないです」とのこと。
でも「肉は食べていいとされている。一滴の血液も肉の中に残されていないという状態にはできるわけではないから、我々は現実的なとらえ方をしている」。
「将来どの成分輸血なら受けてもいいといったことにはなるかもしれない」(趣意)とのことでした。
調べてみたところ、すでに現在でも、アルブミンや免疫グロブリンなどをOKと言っているようです。
http://cult-sos.jp/cultnews/1346/

難しい理屈こねくり回して、さっさと統治体は「輸血は良心の問題(つまりOK)」って言うべき。
あなたたちは人を殺し過ぎている。

昔の「ものみの塔」

昔の「ものみの塔」に輸血して助かった人の体験談が載っていたことがあったようだが、と話したところ、「それは知らない」とのことでだんまり。(多分動揺してた)

(上記の英語の記事は1937年からの機関紙だった「Consolation(なぐさめ)」の記事です。
たしかに医師が輸血をして信者の女性が助かったと書かれています。)
情報遮断がうまくいってしまっているようなので、みんなで教えてあげるべきですね。

輸血を受けたら排斥されますか?

言葉を濁されましたが、結論としては、排斥される、ということのようでした。
「仲間とはみなすことができない」とのこと。

ただ、ここを見る限りでは、最近は排斥されていないようです。
http://cult-sos.jp/cultnews/1346/
「永遠の命の見込みを失うことを恐れて、血液のいかなる成分をも受け入れない人が多い。」という一文に暗澹たる気持ちになりますね。

全時間の奉仕者について

Wikiを読むと、「バプテスマを受けて少なくとも半年を経過したエホバの証人の中には、年に840時間(70時間/月)を証言活動に費やすと神に誓約する者もいる。彼らは正規開拓者と呼ばれる。その多くは専業主婦であったりパートタイムの仕事などで平日の時間を捻出している。」とのこと。
これ、若い人がやっちゃいけないよね、やったら将来食い扶持無くなっちゃうよ(結構人生詰むよ)、と思うわけですが、その点について率直に聞きました。
「そういう選択をされる方もいますね。その方の自由だと思います。私たちが積極的にそれを推奨しているというわけではありません。」
ホントでしょうか。

若い熱心な信者にとっては楽な選択肢かもしれないなーと思うんですよね。
つらい就職活動しなくてよくて、いつもやっている「証言活動」をしていれば、周りの仲間に賞賛されるわけですから。
でも、そんな安易な選択肢を与えることで、若い人の将来の生きる糧を奪ったり、才能の芽を摘むようなことは許されないと僕は思います。

参考資料:
年金払えるなら払いましょうよ

ネット遮断

今日お話しした方は、お名前と携帯の電話番号をくれました。
お名前でググっても、見事に何も出てこない。
おそらく統治体の言うことを守って、サタンの影響下にあるインターネットには近づいておられないのでしょう。
今日も「私はネットで調べたりはあまりしないので…」とおっしゃっていました。

参考資料:
ものみの塔聖書冊子協会を脅かす「フェイスブック」

やめるのは簡単…だと?? その日最大の欺瞞

「私たちの宗教は入るのはとても難しいが、やめるのは簡単です」と言っていました。
多分、やめるときに無理に引き止めたりといったことは実際されないんだろうと思います。
「でも、やめちゃったら、信仰している家族と話ができなくなるんですよね?」と聞いたら、言葉を濁してはおられましたが、肯定されていました。
「聖書に明確に書いてあるので」と。

超やめづらいわ!!! アホか!!!

あんなまじめで善良そうな方に、そういう欺瞞を言わせる統治体が僕は憎いです。
エホバの証人から知り合いを脱会させるときは家族単位で脱会させるつもりです。

参考資料:
エホバの証人の下半身事情 脱会した方の苦労が書かれています。

結論

エホバの証人はカルトだが、信者は怖くない。
拉致も監禁もされない。
だから凸っても安心。
たぶん王国会館に行っても大丈夫。
派手にやると出入り禁止になっちゃうかもしれないんで、バランスは必要かもしれませんが…。
「排斥」されちゃった「元信者」の方は、(たとえ血のつながった家族でも)信者の方とあいさつをすることもできませんから、僕ら非信者が凸って優しく動執生疑(どうしゅうしょうぎ:執を動じ、疑を生ず。それまでの小さな法に執着した心を揺さぶり、より大きな価値観へ目を開かせること)を起こしていくことが大切ですね。

次回予告

・本当に高度教育を否定しているのか聞く
・創価学会の会友になったら「排斥」されちゃうのか聞く
・聖書は科学的にも正しいと言っているが、進化論はどうとらえるのか聞く

功徳報告

 今、あるセミナーに向けて準備をしています。
どのくらいの方に来ていただけるのか分かりませんが、持てる技術、知識、情報収集力を可能な限り使って、来た人に「来てよかったな」と思っていただけるように、心を砕いています。
 そんな中、願ってもない素晴らしい方がうちの職場に手伝いに来てくれることが決まりました。
いつもと同じように募集かけただけなのに、向こうから来てくれちゃったという。
当初はあまりにすごい実績なんで、「ちょっとうちでは申し訳ない」と思って、別の応募者の方の面接を設定してたんですが、面接する前に先方から「都合が悪くなった」と断られちゃいました。
それならばと今回の方の面接を設定したらば、もうすんごいいい人。
最高の実績と、最高の人柄。
普通の給与なのに。
 


 
 忙しい中で精いっぱい頑張ると、すぐに功徳が頂ける。すごいことです。
もっとも、こんな仕事の悩み事なんかは比較的解決しやすい些事。
勝負は自分の仏界をいかに湧現させられるか、という点にあるわけですが、やはり凡夫ですので、「この信仰は正しい」ということがきちっと生活の中の感覚の上で示されるのは大変にありがたいと感じています。
「一切は現証に如かず」(御書一二七九ページ)とありますが、「とりあえず『正しい』という答えは分かっている」というのは、大変有利。
今日も仕事でいろいろあって、自分はやはりまだまだなぁと思い知らされましたが、未熟だからこそ修行の意味もあるわけで、頑張って自分の人生をより価値のあるものにしていきたいと思います。

セミナーをしてきました

先日、ある支部に呼んでいただいて、またセミナーをしてきました。
素晴らしい支部でしたので、すでに雰囲気が出来上がっており、非常にやりやすかったです。
ただ僕は練習不足で、終了後、本当に大反省大会。
評判は結構良かったそうなのですが、本当に反省しています。
もっとできた。
もっとこう言いたかった。
こうすれば伝わった、などなど。
何回かさせていただいての実感ですが、
成功したら、99%その組織の方の努力のおかげ。
失敗したら、99%自分の責任。

カッコつけてるわけじゃなくて、これはホントにそうだと思います。
もうすぐまたセミナーで読んでいただいているので、次はリベンジしたいと思います。
いつか納得のいくセミナーができるようになるんだろうか…。
精進あるのみ。

セミナーを引き受けたら功徳が

毎年この時期は、創価学会的になぜかセミナーがあちこちで開催される季節みたいなんですよね。

で、僕のところにも依頼が来ましたので、日程が許す限り、引き受けさせていただきました。
今回は2か所。
まぁセミナーといっても、会合の中で30分くらい時間をいただいて、お話をするだけです。
ただ、これがなかなか侮れない。
以前、お家を建てようかという話になって、1年以上探しても全然希望通りの土地がなくて困っていましたが、頑張ってセミナーを終わらせた後、何故か「あ、もう土地は見つかるわ」(実感としては「もう土地は見つかったわ」の方が近い)という感覚があり、実際そのあとしばらくして完璧に希望通りの土地が見つかった、ということがありました。
今年は、一か所スケジュール的に無理なところに何故か僕がエントリーされているという話が持ち上がり、もう仕方ない、もう他の人に頼むこともできないだろうし、研修を途中で抜けてでもセミナーを引き受けよう、と決意したところ、僕の職場で全然応募がなくて困っていた募集に、最高の方から応募がありました。
今回も、感覚としては「あぁ、セミナーを引き受けようと決意したからだなぁ」という感覚がありました。
実際はすでに断っていたものらしく、セミナーはしなくてよかったわけですが、まさに「心こそ大切なれ」で、その気持ちになっただけで功徳が頂けちゃうあたりが本当にすごいと思います。

折伏について

 今日は(ほんのちょっと)調子が悪くて男子部の部活に行くのやめようかなとも思ったんですが、少し休んで体力が回復したので行ってきました。
本部長が折伏を決めたと部長が言ってました。
部長も折伏に挑戦中。
「折伏」というと、「人の弱みに付け込んでとんでもないものを売り込む行為」という人もいますが、結局、一番大事なところは、「それを信仰することによって、その人が精神的にも社会的にもいい状態に変われるかどうか」だと思います。
で、変われなかったら、創価学会の信仰がここまで世界的な広がりを見せることもなかったのではないかと思います。
しばらく頑張ってみて、いい方向に変われなかったら、世間体も悪いし、みんなやめちゃうと思います。
変われた実感があるからこそ、次の人にも勧める。


 幸福の科学さんとか、ものすごい創価学会を研究して真似してるなぁと思いますし、たぶんメディア戦略なんかは創価学会よりも上手くやってる部分があるんじゃないかと思いますが、それでも創価学会の広がりには遠く及ばないところを見れば、一般の方にも「何か差があるに違いない」と分かっていただけるのではないかと思います。


 当たり前ですが、折伏を決めても紹介者には創価学会から何も特典はありません。
ただ、その人のことを心から思って深く祈る中に、自身の人間としての成長(仏教的に言えば、菩薩界、仏界という、生命のいい側面の湧現)があり、それを通して出てくる強い生命力、精神力でいろいろなことを乗り越えて行けるようになるわけです。
また、そういう状態になると、時には「奇跡」と呼べるようなことも起きると。
人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている (祥伝社黄金文庫) 村上 和雄 (著), 棚次 正和 (著)
にもそのあたりの事が書かれていました。
ちなみに、この本は全く創価学会とは関係のない、筑波大学の名誉教授が書いた本です。
この本、まったく引用文献とかが書かれていなくて、論文を読みなれた人間から見るとその点非常に不満なわけですが、一応この本によれば、様々な研究を総合すると、どの宗教を信仰しても、他者のために祈れば等しくいい結果が導かれるということになっているそうです。
ただ、創価学会の信仰と他の宗派の祈りの効果をガチンコで比較した論文はないわけで、そこをやったら結構統計学的に有意な差が付いてしまって面白いことになるのではないか、と個人的には思っています。
かつて戸田城聖先生もそんなことをおっしゃっていたと何かで読んだことがあるような気がしますが、詳細は忘れました。
すみません。


 最近読んだ、小乗教(上座部仏教)を信仰している先生の本には、「困って頼ってきた方に教えを伝えればいい」というようなことを書かれていましたが、それじゃぁ釈尊(釈迦)がその生涯を布教のための行脚に費やし、亡くなる時もその行脚中だったことはどう説明するのですかと。
困窮した人を横目で見て、場合によっては物理的に救うことはあったとしても、自分の信仰する、最も大切な宝物を伝えないとしたら、釈尊がその生涯を通して伝えようとしたことを意図的に無視していることにはなりませんか、と。
あぁ、今日はだいぶ脱線してしまいました。
すみません。
あぁ、そうそう。
私もがっちり題目をあげていたら、クライアントの一人の事がバーンと頭の中に浮かんできまして。
私が直接その方を折伏することはないと思いますが、いつかその方が今の苦境を乗り越えてくれるように、祈りを開始しました。