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素晴らしい記事

創価学会と会社―戦後日本の都市にあらわれた「二つのムラ」―|タサヤマ|note(ノート)を拝読しました。
創価学園の関西校の卒業生が書いたもの。
1983年生まれとあるから、32才くらい。
つまり著者は私の同門の後輩なんである。私は東京校だったから知り合いである確率はほぼないが…。
 
記事は大変学術的に書かれていて、論文を読みなれていない方には難しく感じられるかもしれない。
しかし非常に理性的に書かれており、好感が持てる。
信仰体験に基づく「感情」は気持ち良く排除されていて、むしろ意地悪に感じられるくらい。
「功徳」に関しては懐疑的なんじゃないかと思える書きぶり。
 
その分、創価学会の外の人には届きやすいだろう。
内部の人は誹謗されたと感じるかもしれない。実際そういう質問もされたようだ。
 
記事を読んで、なぜ創価学会がかつてのように爆発的に会員数を伸ばすことがないのか、その理由の一端を知ることができたように思う。
 
ただ、

「つまり素直に解釈すれば<生活は貧乏なままかもしれないが、しかしその貧しさを分かち合えたり相談したりできる仲間ができたのでこれを功徳と考える>という生活態度を想像することが出来よう 。でもこれ、なんだかおかしくないだろうか。まるで財宝をもとめて冒険の旅に出て、結局お宝は見つからなかったけれど、振りかえってみればこの冒険をすることでえた仲間たちとの出会いこそが最高の財宝だった、みたいな少年ジャンプ的欺瞞を感じないだろうか。しかし彼らがその体験を持って信仰を継続している以上、誰がなんと言おうとそれが「ご利益」なのであるし、それが彼らの「信仰理由」なのである。
 
 つまり一般に考えられているような創価学会の現世利益主義は、入会の契機にはなったかもしれないが、信仰の継続理由ではなかったわけだ。地方から都会にやってきた下層民たちは、創価学会の活動をするなかでお金持ちにはならなかったかもしれないけれど、すくなくとも人間的なつながりは取り戻すことができた。」

というくだりは、やはり創価学会員としては少しだけ引っかかる。
 
もちろん記事に書いてある通り、「素直に解釈すれば」そう読めるかもしれない。
だが、私から見れば、
・経済的なことも解決されたが、人間的成長など、それを越える功徳を得た
・苦しいと思っていた生活が、そのままで苦しいと感じなくなった
のかもしれないではないか、そういう体験談も多いではないか、と思える。
私だって、親のせいで保証人と返す借金とで合計3億円の負債を背負ったが、信心で乗り越えて今は3千万くらいまで負債を減らした。
一般的な価値観では経済的なことが一番の功徳と見えるかもしれないが、私は「今の生き方を得たこと」が一番の功徳と思っている。
 
「入会した理由」の回答は複数回答可なのに、「御利益」は一つしか選べない、という設定なのもよくない。
(彼の研究ではないから、彼に瑕疵はない。)
 
しかし一方で、彼のように書いてしまった方が外部にはウケがいいのは分かる。
少なくとも、学術的には彼のように読むのが「素直」だろう。
また、「創価学会=現世利益主義」というテンプレ批判に対する答えとしては、つけ入る隙を与えていないという点で素晴らしい。
 
記事に書かれている通り、学会がムラを作ったというのは本当だと思う。
また活動の中で、いい面も悪い面も含めて、ムラ的メンタリティが残っているなぁと感じる時もある。
 
彼は安保法制にも反対であるようだ。
(かく言う私も立憲主義に反する言説には反対である。)
いろいろな意見が出てこないような組織は硬直化し、必ず滅びる。
彼にはもっともっと頑張っていただきたい。
組織は人が作っているものである以上、完璧であることなどあり得ない。
常に刷新されていかなければ、淘汰されてしまう。
 
このような記事が、創価学会内部的にはエリートとされる学園生によって書かれていることに注目していただきたい。
「広く学び、自分の頭で考える」ことを教育されてきたからこそ、このような記事が書かれている。
創価学会を洗脳集団のように言う方をたまに見かけるが、それは現状を正しく認識していない妄言であると断じることができる。

従藍而青(じゅうらんにしょう)

池田先生はよく創価学園でのスピーチなどで「青は藍より出でて藍より青し(従藍而青)」ということを言われていました。
当時はなんとなく「ふーん」とか聴いてましたが、今思えば、「お前ら、俺を超えろよ?」って言ってたんだなぁと思って自分の浅はかさにがくり。
 
よく池田先生をカルト教団の教祖みたいに言う人いますけど、不特定多数の弟子に向かって「自分を超えろ」って言い続けるカルト教団の教祖っているんですか?
私はそういう例を知らないです。
カルト教団の教祖って自分を絶対視させようとするんじゃないの?
いや、今日はその話じゃない。
 
がんばって、一部でも池田先生を超えないと弟子としては師匠の言いつけを守らなかったということになるわけで、なんとか(できればご存命のうちに)行けるところまで行きたいなと思っています。
具体的にどうすんの、というところはかなりあやふやですけど…。
 
ちなみに、主に裏切り者たちが創価学園のことを創価学会の教義でマインドコントロールする場所みたいなこと言ってたりしますが、私はほとんどあの場で宗教教育を受けていません。
最近聞いた話ですが、学園の先生たちも、忙しすぎて創価学会の活動には全然参加してないことが多いようです。
 
あの場所は洗脳するための機関とか、そういう場所ではありません。
世界をよりよくするために、この青春をかけて勉強しよう、本を読もう、そういうことを学生たちが堂々と語りあい、切磋琢磨しているところです。
自分のために「成功しよう」とか「儲けよう」とかいうやつは恥ずかしいやつだ、という共通認識が持たれています。
一宗一派のための教育機関ではありません。
池田先生が学園で創価学会の話をされたことは、私の知る限り1度もありません。
私の母校を貶さないでいただきたい。
あぁ、今日はその話じゃない。
 
えぇと、私の従藍而青は宗教的なことではなく、もっと現実社会の改善にダイレクトにつながるものになるかも、ということでした。
形にして先生にご報告しやすいですし。
がんばろう。
がんばれ、自分。

2014 SGI提言を読みました。

2014年のSGI提言を読みました。

 池田先生はいつも平易な文章でご指導してくださいますが、SGI提言だけは別格。
長文でもありますし、文章もアカデミックでスラスラ読めず、僕なんかは額に汗しながら、しかしその卓越性に驚きながら、創価学会・SGIの使命の深さに身を引き締めながら毎年読んでいます。

 今年の提言のうち、安全保障の面で特になるほどと思ったのは、
「ある集団の中に排他的で暴力的な志向を強める人々がいたとしても、集団全体を敵視することは憎悪の連鎖を招くだけ」
「防災や減災を含むレジリエンス強化のための交流を進め、「友好と信頼の絆」を堅固にしていく。(中略)「平和的共存」という面を地域全体に浮かび上がらせていくーー」
「日中韓の首脳会談を」
というくだりですね。
今、日中、日韓の間を引き裂こうとする動きが大きくなってきていますが、感情論に流されそうになるなか、提言を読んで「あぁ、そうだよな」とやっと落ち着くことができました。

 たしかに勝負事で日中、日韓はいつも変にヒートアップしてしまいがちですが、もし、災害時を想定した訓練でお互いの国に出張っていって、どれだけ効率的に多くその国の人々を救えるか、みたいな勝負だったらいがみ合いはないかもしれないなぁとか想いを馳せてしまいました。
負けても「くっそ、さすがお前らんとこは凄いな、次は負けねーぞ」ってなったら、くっさい青春ドラマみたいなのに泣ける。

 そしていつも思うのが、池田先生は「SGI提言」でこそ、日蓮仏法の精神をどう現代に即して展開していくのか、ということを明快に示されている、ということ。
ともすると日蓮仏法は排他的ととられてしまうことも多いですし、実際社会不安をあおって排他的な活動をしているカルト信仰団体もあるわけですが、当然ながら日蓮大聖人自身が他者を貶めようとする精神の持ち主だったわけではなく、一筋に「四表の静謐」(今風に言えば世界の平和)を志向しておられたわけです。
その精神をどう現代に展開するかは、ひとえに現代の信仰者・実践者にかかっているわけですが、池田先生は「SGI提言」でその方向性を明快に示され、仏法者として生きる指標を与えてくださっています。
本当に不世出の、これ以上ない師匠だと思っています。
考えるだけでなく、実際に国連NGOとして動き、学校を作って多くの俊英を育てていらっしゃる人など、他にいるでしょうか。

 「創価学会はカルトだ!(ソースはネット)」とか本気で書いている方々を掲示板等でお見かけしますが、そのネットでSGI提言が簡単に手に入るわけで、ぜひこちらもどうぞお読みいただきたい、と切に思います。

うちの場合。

はてな匿名ダイアリーにこんな記事(http://anond.hatelabo.jp/20130829111837)が載ってました。
僕も今の奥さん(当時はまだ彼女)を説得して、創価学会に入会してもらったクチです。
記事にもありましたが、まぁ僕の心境としても入会してくれなかったら結婚できなかっただろうなぁと思いますねぇ。
 
 もちろん、これを「創価学会の盲信者」「マインドコントロールされているかわいそうな人」とレッテルを貼って鼻で笑う方も、実態を知らないがゆえに闇雲に怖がる方もいらっしゃるのは分かるつもりです。
ただまぁ、現状認識の材料として、僕の場合はこんな感じですよ、というのをお伝えしようかと。
 
 僕は前にも書きましたが、創価中学・高校出身です。
創価中学・高校というのは、(少なくとも自分の時代は)「社会・世界に貢献できる人材に成長しよう」というのが強く打ち出された学校でした。
池田大作先生がスピーチをされたり、メッセージを寄せてくださったりするのですが、まったく宗教の話はされず、様々な偉人のエピソードを通して、読書・勉学に励み、世界に羽ばたく人材に育って、貢献していくんだよ、ということばかりおっしゃっていました。
 
 そのためか、僕の周りも私利私欲のために勉強する、などという人間はおらず、皆、熱い理想を持って勉学に励んでいたように思います。
キリスト教系の学校のようにお祈りの時間などは一切ありませんでしたので、一般的な宗教校よりもよっぽど宗教色が薄く、イギリスのパブリックスクールのようなイメージに近いんではないかと勝手に思っています。
 
 そんなわけで、僕もそれほど勉強ができる方ではなかったのですが、結構必死に勉強しました。
名著と呼ばれる文学も頑張って読み、人生観や人格を磨くことに取り組みました。
(その際、決して「創価学会」という一宗派に貢献するため、などという偏狭な気持ちは一切ありませんでした。)
その結果、今はたくさんの方に貢献できる業種につかせてもらい、夢に向かって必死に働いています。
30代で年商2億ですから、自営業としてはまぁ成功した方ということになるでしょうか。
いまだに資金繰りでひーひー言ってますが…。(´・ω・`)
 
 で、僕の実感としては、そこまでなんとか来られた原動力は、間違いなく創価中学・高校時代の池田先生の指導であり、友人たちとのつながりであり、信仰なわけですよ。
できれば一生を共にする奥さんには、その文化圏にいて欲しいわけですよ。
友人なら別の信仰を持っていてもらってもいいんです。
超仲良くなることだってできるし、深い語り合いをすることもできる。
池田先生だって多くの識者(キリスト教徒やイスラム教徒)と非常に深い対談をされ、友誼の輪を広げておられる。
でもやっぱり奥さんには普通に学会活動上の愚痴も聞いてもらいたいし、同じベースの上でつながっているという感覚がほしいわけですよ。
自分の恩師を、奥さんが外からの視点で「池田さん」とか言っちゃってたらすげぇ寂しい。
自分が大好きなアニメとか漫画を超バカにされるのより寂しい。
 
 今、うちの奥さんはそれほど学会活動を頑張っているわけではなくて、一応座談会とかには出ているという程度なんですが、それでも入会してくれてないよりは5万倍嬉しいです。
ダメか。

創価中学・高校で習ったこと。

 私が創価中学・高校に通っているとき、しょっちゅう言われたことであり、校歌にも歌われていたことがあります。
それが、「何のため」というフレーズです。
勉強するのも、情熱を燃やすのも、すべて一流の人材になって、社会に貢献するためである、と教わりました。
池田先生も学校にいらして、何度もそうスピーチしておられました。
僕が池田先生の口から信心の話を聞いたのは、覚えている限り、創価大学で「大変だったら勤行はいいから、しっかりお題目をあげなさい」とおっしゃっていた時のみと思います。
(それも、スピーチが終わった後、懇談的にお話をされているときでした。)
広宣流布(広く学会の信仰を教え広めること)が目的だとは一度も言われたことがありません。
学校に仏間はありましたが、ごくたまに使用されるだけで、キリスト教系の学校のように「祈りの時間」などは一切ありませんでした。
そのかわり、なぜ勉学に励み、本を読むのか、を思索させられたのです。

 池田先生は常に「広く、たくさんの本を読みなさい。読むなら一流の本を読みなさい。勉強しなさい。」といつも言っておられました。
そしてスピーチの中で紹介される本は、いわゆる海外の古典文学ばかりでした。
日蓮大聖人の御書はおろか、仏教徒の書いた本すらなかったように思います。
そして、ナポレオンやベートーベン、ソクラテス、プラトン、チャップリン、アベベなどの生涯を通して、いかに人生を豊かに生きるか、というお話をされていました。
「勉強するな」と言って、自分に都合のいい人間を作ろうとした独裁者とはまったく違います。

 創価学会員さんのなかにも、学園(創価中学・高校)を「学会のことすべてを是認するイエスマン、ロボットを量産する工場」かなにかと勘違いされている方がいらっしゃって辟易したりしますが、学園は学会という組織のためにあるのではありません。
建学の精神から言っても、学園は学会のためではなく、社会のためにあります。
もっと言えば、学会自体も、社会のためにあるのだと思います。
私の学園時代の友人の一人は、かつて公明党が自衛隊の海外派遣を支持した時、デモをしました。
私はその友人を誇りに思います。
自分の頭で考え、自分で行動したからです。
いろいろな考えの人間がいて、その考え方が尊重されるということこそ、その組織が健全であることの証左です。
「根本の信仰」が同一である限り、それは、「団結」と相反するどころか、本来「団結」の必須条件のはずです。
自分(もしくは組織の大多数)と違う考え方の人間を排除するような組織は硬直化し、すぐに崩壊します。
そのことをゆめゆめ忘れてはいけないと思います。