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学会2世、3世の告発に思う

ネットを見ていると、学会2世、3世の方が、学会を糾弾していることがあり、心が痛みます。
理由はそのほとんどが、どう見ても親が育児をちゃんとせず、学会「活動」に逃げていたことが原因と思われるから。
(育児が大変で仕事に逃げちゃうのと同じ構図と思います。)
 
私の知り合いの元創価学会の本部職員だった方の息子さんがたは、親御さんが大好き、創価学会も大好き。
親御さんは活動に逃げず、しっかり息子さんたちを育てておられました。
信心はもちろんしっかりしていますが、活動はバランスを取りながらされていたようです。
 
反対に、創価学会の幹部の息子でちょっと問題があるような子は、親御さんがしっかり育児をしていない。
多分学会も嫌い。
そらそうですよね。
子どもから見たら、親を悪者にしたくないから、「創価学会が自分から親を奪った」って考えたくなる。
そう考えたら、「創価学会=カルト」って図式になりますよね。
無理もない。
 
池田先生・奥様はその点、時間がない中、一生懸命子どものために工夫を凝らされていたようです。
小説「人間革命」にも、そのあたりのことが書かれていました。
 
「一家和楽の信心」といいます。
学会員なら耳にたこができるほど聞いたことがあるはずです。
家族が幸せになるための信心ですから、家族の問題が起きた時は、活動をすこしお休みしてでも、がっぷり四つで取り組むべきと考えます。
ご本尊に祈ってれば、勝手に子どもがまともに育つなんてこと、あるわけありません。
そんなの信心じゃありません。
 
育児は大変な労作業です。
生命力が十分になければ、いい育児・教育などしてあげられません。
だからこその信心なんだと思います。
祈って、生命力を引き出して、子どもを大切に育てる中で、自分と子どもの成長があるわけです。
「信心根本=学会活動根本」ではありません。
逃げちゃいけません。
逃げれば後継の人材が育ちません。
かえって敵を作りかねません。
何より子どもさんがかわいそうです。
 
結論:学会員は、世間の人よりも育児を頑張るべき。そのエネルギーを、信心で得るべき。


愛する奥さんへ。
僕も育児、頑張ります。
ときどきへたるけど、許してください。w

「騒音おばさん」について

ネットサーフィンをしていたら、「騒音おばさんは創価学会員のひどい勧誘にあった被害者で、おばさんは創価学会と戦った英雄」みたいな書き込み、動画を多数見つけてしまいました。
訴えた被害者夫婦が創価学会員だという証拠はどこにもないにも関わらず、もっと言えば「ひどい勧誘を受けた」という証拠はさらにない中で、おばさんを全力で擁護している姿は残念と言うほかありません。
 
「マスコミは本当の事を言わない!」と憤る一方で、真偽不明のネット情報に飛びついてしまったのでは、情報リテラシーとしてはかなり厳しいものがあると思います。
下記ページによると、裁判は刑事裁判だったため、被告人の言い分は存分に述べられているはずとのこと。
それでも最高裁の裁判官全員一致で判決が出ているわけで、少なくとも出所不明の情報を頼って「騒音おばさん」を擁護する妥当性はかなり低いと考えるべきです。
Yahoo!知恵袋:「”騒音おばさん”は、創価学会の圧力で悪者にされた」というデマ


 ところで、もし仮にネットで書かれているように訴えた被害者夫婦が学会員で、ひどい勧誘をし、断られたからと言って嫌がらせをしたというのが事実であったとしたら、そんな人間は学会員として失格と思います。
人間性を高めるための宗教です。
熱心な学会員は、周囲の人に元気になってもらいたい、幸せになってもらいたい、との思いで折伏(勧誘)をします。
相手を思っての行動ですから、相手にむげに断られたとしても、嫌がらせをしてやろうなどとは夢にも思いません。
むしろ、「自分の言い方が未熟だったかな、相手に響かなかったのは自分に原因があるはずだ」と考えます。
そして「いつか良さを分かってくれるといいな」と思いながら、誠実に人としてお付き合いを続けるはずです。
 
結論:ネットで「被害者夫婦は熱心な学会員」とよく書かれていますが、もし本当に学会員なら、学会員としてクズ!

折伏について

 今日は(ほんのちょっと)調子が悪くて男子部の部活に行くのやめようかなとも思ったんですが、少し休んで体力が回復したので行ってきました。
本部長が折伏を決めたと部長が言ってました。
部長も折伏に挑戦中。
「折伏」というと、「人の弱みに付け込んでとんでもないものを売り込む行為」という人もいますが、結局、一番大事なところは、「それを信仰することによって、その人が精神的にも社会的にもいい状態に変われるかどうか」だと思います。
で、変われなかったら、創価学会の信仰がここまで世界的な広がりを見せることもなかったのではないかと思います。
しばらく頑張ってみて、いい方向に変われなかったら、世間体も悪いし、みんなやめちゃうと思います。
変われた実感があるからこそ、次の人にも勧める。


 幸福の科学さんとか、ものすごい創価学会を研究して真似してるなぁと思いますし、たぶんメディア戦略なんかは創価学会よりも上手くやってる部分があるんじゃないかと思いますが、それでも創価学会の広がりには遠く及ばないところを見れば、一般の方にも「何か差があるに違いない」と分かっていただけるのではないかと思います。


 当たり前ですが、折伏を決めても紹介者には創価学会から何も特典はありません。
ただ、その人のことを心から思って深く祈る中に、自身の人間としての成長(仏教的に言えば、菩薩界、仏界という、生命のいい側面の湧現)があり、それを通して出てくる強い生命力、精神力でいろいろなことを乗り越えて行けるようになるわけです。
また、そういう状態になると、時には「奇跡」と呼べるようなことも起きると。
人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている (祥伝社黄金文庫) 村上 和雄 (著), 棚次 正和 (著)
にもそのあたりの事が書かれていました。
ちなみに、この本は全く創価学会とは関係のない、筑波大学の名誉教授が書いた本です。
この本、まったく引用文献とかが書かれていなくて、論文を読みなれた人間から見るとその点非常に不満なわけですが、一応この本によれば、様々な研究を総合すると、どの宗教を信仰しても、他者のために祈れば等しくいい結果が導かれるということになっているそうです。
ただ、創価学会の信仰と他の宗派の祈りの効果をガチンコで比較した論文はないわけで、そこをやったら結構統計学的に有意な差が付いてしまって面白いことになるのではないか、と個人的には思っています。
かつて戸田城聖先生もそんなことをおっしゃっていたと何かで読んだことがあるような気がしますが、詳細は忘れました。
すみません。


 最近読んだ、小乗教(上座部仏教)を信仰している先生の本には、「困って頼ってきた方に教えを伝えればいい」というようなことを書かれていましたが、それじゃぁ釈尊(釈迦)がその生涯を布教のための行脚に費やし、亡くなる時もその行脚中だったことはどう説明するのですかと。
困窮した人を横目で見て、場合によっては物理的に救うことはあったとしても、自分の信仰する、最も大切な宝物を伝えないとしたら、釈尊がその生涯を通して伝えようとしたことを意図的に無視していることにはなりませんか、と。
あぁ、今日はだいぶ脱線してしまいました。
すみません。
あぁ、そうそう。
私もがっちり題目をあげていたら、クライアントの一人の事がバーンと頭の中に浮かんできまして。
私が直接その方を折伏することはないと思いますが、いつかその方が今の苦境を乗り越えてくれるように、祈りを開始しました。

恥ずべき人種・民族差別主義者たち

ネットを見ていると、池田先生のルーツが実は在日韓国人だ、という記載がよく見受けられます。
結論から言うと、これを言っている人たち、大変失礼ながら、恥ずべきレイシスト(人種・民族差別主義者)です。
「在日だから悪者」と言いたいのでしょうけど、ホント恥ずかしい。
海外でそんなこと言ったら、「最低のレイシスト」というレッテルを貼られて相手にされなくなるでしょう。
相手を自分と同じ「人間」と見ていない点で、原理主義テロリストにも通じる危険思想と言えると思います。


そもそも在日であるという話も根拠がない話のようですし(http://okwave.jp/qa/q4383162.html)、もしそうだったとしても、だからどうしたの、という話。
創価中学・高校で教育を受け、学生部で活動し、友達がたくさん幹部になった私ですが、耳にするのは、「世界」の平和のために貢献していきましょう、という話のみ。
在日だろうとなかろうと関係ないのです。
「韓国のため」などという宗教がこれだけ世界中に広がるはずもありません。


もう一つ興味深いこと。
池田先生のお兄さんは戦争で亡くなられているんですが、件の方々は、自分の国のために兄弟が戦って死んだ人に向かって、「お前なんて日本人じゃない」と声高に叫んでいるわけで、おそるべき偏狭さ。
しかも根拠なんて多分確認していないわけで、大変残念な考え方をされているなぁと思います。
日本人(武家の末裔)として、本当に恥ずかしいです。

男子部の部活に参加してきました。

少し前から、部活に参加するようになりました。
以前は仕事の都合が合わない時間帯だったので、参加していなかったんですが、最近は都合がつく曜日にいつの間にか変っていたためです。
今日は壮年部の支部長が来られていました。
この支部長、本物でした。
池田先生の御指導通りに、相手の事を祈りきって折伏に挑戦してきた方で、池田先生がよく「(本気で相手の事を思って)折伏したら、信用が残るよ」という御指導をきちんと自分のものにしていました。
「成果」のために、いやいや折伏のまねごとなんかしても信用なんか残りませんよね。
相手のために心底祈って、対話するから信用が残るわけです。
昔、学生時代に心底相手の事を祈ってから仏法対話した時、相手が理解してくれて本当にうれしかったことを思い出しました。
あの時は間違いなく菩薩界(他者のために尽くす中で、喜びを感じ、自分の「生きる力」が強くなる境涯・状態)だったんだろうなぁと思います。
今日は支部長以外にも、折伏に挑戦している人が何人も来ていました。
最近ちょっと化他行(信心していない方に仏法について語ること)をしていなかったので、本物の方に会うとなんだか恥ずかしい気がしてしまいます。
生命力が弱っているんですね。
明日からまた信心根本に仕事を頑張りたいと思います。
職場のみんなに、仏法のすごさを分かってもらいたいですしね。

支部のセミナーをしてきました。

今日(正確には昨日)、セミナーをしてきました。
それも2件。
祈りでなんで健康になるのかという話。
遺伝子を絡めて話しました。
結構は笑いはとれたんですが、ぽつぽつ仕掛けた笑いが滑って悲しかったです。
あと、ああいう言い方はよくなかったとか、なんで学会の信心じゃなきゃいけないのか、というところが弱かったなぁ、とか。
反省しきり。
ただまぁ、実践しないと反省もないわけで、やったこと自体はよかったなぁと。
がんばって成長して、もっといいセミナー、聞いた方が元気になるようなセミナーをできるようになりたいと思います。

もう一人の祖母の3回忌もありました。

ちょっと前にもう一人の祖母の3回忌がありましたので、その時の話を少し。
親戚がみんな学会員でしたので、親戚のおじさんが導師で普通に勤行をし、お料理屋さんに移動。
和気あいあいと皆で話をしました。
祖母は明るくて、大変人柄のいい人だったのを思いだしました。
大好きな祖母でした。
正直に申し上げて、他人の僧侶が来たら、変に儀式ばってしまって、あの雰囲気はなかったのではないかと思います。
自分たちの手だけで法事をするのって、いいものです。

友人葬について その2

友人葬についてネットで調べてみると、ただの憶測に基づく低俗なデマ(学会は香典を持っていく、など)の一方で、その独特のスタイルに、嫌悪感を感じられる方もいらっしゃるようです。
いくつか分類してみます。
(もちろん、網羅はできていないかもしれません)
1.学会が嫌いだから友人葬が気に食わない
2.(故人が学会員でなかった場合)故人の遺志にそぐわないのではないか
3.南無妙法蓮華経をみんなで唱和しているのが気持ち悪い、怖い
4.あまり関係のない学会員が駆り出されてきているようだ
5.導師の話がいまいち。(友人葬の正当性の話しかしない)

では、一つ一つのパターンについて、私なりの考えを書いていきたいと思います。
まず、「1.学会が嫌いだから友人葬が気に食わない」について。
これは何らかの理由で学会を嫌っておられる方が、友人葬にかこつけて文句を言っているパターン。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつ。
ちなみに、なぜ坊主が憎まれたかという話が教えて!gooに載っていました。
まぁ、これは個別に理由があり過ぎて対応しきれないのでパスです。
すみません。
次に、「2.(故人が学会員でなかった場合)故人の遺志にそぐわないのではないか」について。
これも難しい問題ですね。
でも、他の宗派の方でも少しはこういう問題、あるんじゃないでしょうか。
故人はキリスト教徒だったのに御遺族が浄土宗の僧侶呼んじゃった、とか。
正直、これに関しては「学会ならでは」の問題ではない気がします。
個人的には、ちょっと面倒な問題になりそうだったら、無宗教の葬儀にしてしまうのもいいのでは、と思っています。
今はそういう葬儀に対応してくれる葬儀社も結構ありますし。
葬儀は故人を送り出す大切な儀式だからこそ、形ではなく、「心こそ大切なれ」です。
友人葬でなければ成仏しない、なんてことは御書にも先生の指導にも書いてありません。
自分の葬儀の事であれこれ遺族同士がいさかいを起こすなんて、故人は望んでいないと思います。
次に、「3.南無妙法蓮華経をみんなで唱和しているのが気持ち悪い、怖い」について。
これは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」パターンが一部含まれている可能性がありますね。
あとは、「単にそういうのを見慣れないから」ということもあるかと思います。
まぁ、浄土真宗が多い地域などでは、結構参列者がお経を唱和されたりするそうですから、これも「学会ならでは」ということもない気がします。
そもそもお経は僧侶のためにあるのではなく、全人類のために書かれたものですから、そういう意味では、「学会員がお経を唱和している姿」はそのまま、「学会が仏教を民衆のものとして復興した姿」とも言えるわけで、学会員以外の方には大変申し訳ないんですが、ここはご容赦いただきたいところです。
「お経は僧侶だけが読んでいればいい」という考え方は、実は、何かと非難されている「葬式仏教」のあり方そのもの。
ただ、読経の声が近所に駄々漏れで迷惑、とかいうことになれば、そこは配慮しなくてはいけません。
これは教義の話ではなくて、中心者の配慮の問題です。
「教主釈尊の出生の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」です。
次に、「4.あまり関係のない学会員が駆り出されてきているようだ」について。
これ、私は駆り出された経験ないんですよね…。
(社会人になってからそれほど活動してないから?)
ただまぁ、先日の祖母の葬儀には何人か地域の学会員の方が見えていました。
どの程度お付き合いがあったのかは分かりませんが、関係ない人が大勢つめかける、ということはありませんでした。
地域によっても差があるのかもしれず、よく分かりません。
すみません。
次に、「5.導師の話がいまいち。(友人葬の正当性の話しかしない)」について。
これについては、正直私もそう思いました。
たぶんもう読む原稿がほぼ決まっていて、それを読んでいるんじゃないかなと思います。
それも、友人葬が始まった当初のものをずっと使ってるんじゃないのか、と。
もう友人葬って、ある程度定着したと思うんですよね。
だから、もう「正当性」とかの話は軽くていい時もあると思うんです。
ちょっとアップデートして、もう少し「おお!」って思うような仏教の話とか、故人の話とかをした方がいいように思います。
私の親の葬式の時は、私が導師をしようかなって思っています。

戒名について。

すこしネットで調べてみたところ、やはりお寺によっては戒名料は取らないところもあるようです。
そりゃそうですよね。
私みたいな小心者が僧侶になったら、絶対に戒名料なんてもらえません。
嘘で脅すなんてこと、無理です。
そんなトラウマ、抱えきれません。
何の罰ゲームですかって話です。
ただ、そういうお寺でも、葬儀に行ったらちゃんとお布施頂戴ね、って言うそうです。
そっちに戒名料は含まれてますよと。
僧侶も生活がかかってますから必死。
参考サイト