楽をするための信仰ではない

最近、僕なんかよりもずっとちゃんと活動とか勤行・唱題をしているであろう方々の悩みを聞く機会がありました。
皆さん、本当に大変。
お気楽で楽しいだけの人生を生きてる人なんていませんでした。
でも、それってよく考えたら当たり前のことかもなと思います。

僕らが何のために進行しているかと言えば、絶対的幸福=一生成仏(今世のうちに仏になること)なわけですよ。
「仏になる」って大変なことなんですよね。爾前経(法華経以前の教え)的には、菩薩が歴劫修行を経て、ようやくなれる(あるいは現実的には無理)のが仏なわけで、そう簡単になれるわけがない。
間違っても、お気楽に遊んでたらなれる、なんてイージーなもののはずがないわけです。

大変だからこそ修行になる。
こういうことを言うと、「功徳が実際にはないことを隠すためのレトリック」とか、そういうことを言い出す方がいやしないかと思うわけですが、「祈ったら叶った」とかいうある意味で皮相的で分かりやすい「功徳」は、信心の序盤で経験済みなわけです。
一定のところまで行くと、もうそういう次元での信仰はしなくなります。
悪戦苦闘の現実の中で、いかに自身を錬磨し、境涯を高められるか、生命を鍛え上げられるか、そして自他ともの幸福を勝ち取れるかという「勝負(=修行)」をしているわけで、「ちゃんと信心しているのに楽ができないのはどういうことか」などと疑問を持つのは、むしろ「ちゃんと信心」できていない可能性すらあるように思います。

「修行」というと、一般的にはなにか出家して瞑想と読経と教学に浸ることのようなイメージがあるように思えます。人によっては激しい荒行などもイメージされるかもしれません。
しかし、御書(日蓮大聖人のお手紙)には「出家しなければ修行はできない」などとは書いていません。むしろ、健気に現実と格闘する在家信者たちを、最大に讃嘆されているように思います。

目の前の苦しい現実を、どう活かして次に進むのか、その苦闘こそが修行。
僕も頑張ります。