「心の財」について

「心の財」の定義

「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」という御書(日蓮大聖人の書かれたお手紙などをまとめた本)の一節は、創価学会員ならみんな知ってると思います。
簡単に言うと、「財産よりも健康が大事。それより大事なのが『心の財』」という意味です。
 
ところが、「心の財とは」って話があんまり出てこないんですよね。
僕は
 
・超お金持ちなのに文句ばっかりで生きるのがつらそうな方
・無名だけど楽しそうに生きてる学会員のおじいさん
 
に代表される方々を比較した結果、きっと「生きる意味」ってことなんだろうと思ってたんですが、「御書の世界―人間主義の宗教を語る (第3巻) 」で池田先生が「私たちで言えば、広宣流布のための誓願を持つこと」と明確におっしゃっていました。

「私たちで言えば」の意味

「私たちで言えば」という言葉が大事ですね。
「他の宗教を信仰している方々にも、『心の財』はある」と言外におっしゃっているわけです。
その文の直前にはこうあります。
「『蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり』(一一七三ページ)との仰せは、重要な哲学であり、第一級の価値論として二十一世紀に再評価されていくことは間違いない」
つまり、すべての人に敷衍できる、普遍的な価値観であるとされているんです。
独善主義では決してない。
「他の宗教は『心の財』を積めない」などと鼻で笑うようなことが仮にあるとすれば、それは明らかに池田先生のご指導に反していると断言できます。

それでも折伏する理由

「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(一一七四ページ)とある通り、折伏は不軽菩薩のごとく、相手を心から尊敬していく行為。
相手が信仰しているものをバカにしたり、貶したりする態度とは、対極にあります。
 
ただ、相手を思うからこそ、相手の「心の財」に最大限の尊敬をしつつも、その上で慈悲の心で正しいものを正しいと言い切っていく。
他の宗教でも「心の財」が積めるけれども、
 
・「広宣流布のための誓願を持つこと」以上の「心の財」はない
・広宣流布の「心の財」を積んだ人は、最高の無上道の人生を歩むことができる
 
との確信で、語り切っていく。
その中に自他ともの幸福があり、人間としての成長もある。
だから折伏するんですよね。

なぜ「誓願を持つこと」が「財」なのか

では、なぜ「広宣流布のための誓願を持つこと」が無上の「財」なのでしょうか。
いろいろな側面があると思いますが、僕の理解では、
 
・自分の人生を「広宣流布(万人の仏性を信じ尊敬するという思想を広げることで世界の平和を実現する)」という大目的のために使うと定めることで正しく生きることができる(人間としてものすごい成長する)
・その誓願を持った上で祈ると本当に祈りがバンバン叶って自分の人生を自由自在に生きられる
 
からだと思っています。
他にもいろいろな視点があるのかもしれませんが、今はそんな理解です。

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