自己肯定感と折伏

自己肯定感とは

最近「自己肯定感」という単語をよく見かけるようになりました。
「自己肯定感」は、「自分は大切な存在である」という感覚。
これが低いと自信のなさ、傷つきやすさ、学習や労働に対する意欲の減退、生きづらさなどにつながってしまいます。

「無明」とは

「『無明』とは、万人に仏性が具わることへの無知であり、不信です。」(「御書の世界3」より抜粋)
「万人」には当然「自分自身」も含まれます。
「自己肯定感」が低い人は、「自分にも『仏性』がある」と信じられないことも多いだろうと思います。

自己肯定感の一般的な上げ方

自己肯定感、持っていますか? あなたの世界をガラリと変える、たったひとつの方法 水島広子 著」等を読むと、
 
1. いろいろな人をよく観察して、
2. 「頑張っていない人など一人もいない」ということをよく理解して、
3. 「それならば自分も頑張っているに違いない」と類推していくことで、自分を認め、肯定していく感覚を養うという訓練法が書かれています。
 
なかなか大変ですし、時間もかかるだろうと想像しますが、水島先生が専門にされている「対人関係療法」は世界中で実践されているエビデンスのある治療ですので、効果は多くの方であるのだろうと思います。

折伏と自己肯定感

「万人に仏性がある」と信じ抜けない「無明」と戦って折伏相手を尊敬し抜き、人間として成長していく・強くなっていくのが折伏であり、この信仰です。
万人の仏性を信じ、尊敬する戦いは「自分にも仏性がある」と信じられるようになることに直結します。
当然、自己肯定感は大幅に上がるだろうなと思いました。
 
さらに自分の苦しみの肯定的な意味(この苦しみを乗り越えて、同じ苦しみを持つ人の希望になるという誓願)を持つことができれば、受け身の人生から能動の人生に大きく変革ができ、生きづらさはかなりの部分減らすことができるだろうなと思います。
その先に「生きているだけで楽しい」という「衆生所遊楽」の境涯も開けるのでしょう。
 
人生の意味・目的までカバーしているからこそ、この仏法は悩める人を力強く助けることができるのだろうと思います。
また「仏法」という軸があれば、対人関係療法などのツールも正しく、より効果的に利用できるに違いありません。
 
この仏法の信仰によって、自己肯定感は大きく育むことができる、そう思いました。

「心の財」について

「心の財」の定義

「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」という御書(日蓮大聖人の書かれたお手紙などをまとめた本)の一節は、創価学会員ならみんな知ってると思います。
簡単に言うと、「財産よりも健康が大事。それより大事なのが『心の財』」という意味です。
 
ところが、「心の財とは」って話があんまり出てこないんですよね。
僕は
 
・超お金持ちなのに文句ばっかりで生きるのがつらそうな方
・無名だけど楽しそうに生きてる学会員のおじいさん
 
に代表される方々を比較した結果、きっと「生きる意味」ってことなんだろうと思ってたんですが、「御書の世界―人間主義の宗教を語る (第3巻) 」で池田先生が「私たちで言えば、広宣流布のための誓願を持つこと」と明確におっしゃっていました。

「私たちで言えば」の意味

「私たちで言えば」という言葉が大事ですね。
「他の宗教を信仰している方々にも、『心の財』はある」と言外におっしゃっているわけです。
その文の直前にはこうあります。
「『蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり』(一一七三ページ)との仰せは、重要な哲学であり、第一級の価値論として二十一世紀に再評価されていくことは間違いない」
つまり、すべての人に敷衍できる、普遍的な価値観であるとされているんです。
独善主義では決してない。
「他の宗教は『心の財』を積めない」などと鼻で笑うようなことが仮にあるとすれば、それは明らかに池田先生のご指導に反していると断言できます。

それでも折伏する理由

「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(一一七四ページ)とある通り、折伏は不軽菩薩のごとく、相手を心から尊敬していく行為。
相手が信仰しているものをバカにしたり、貶したりする態度とは、対極にあります。
 
ただ、相手を思うからこそ、相手の「心の財」に最大限の尊敬をしつつも、その上で慈悲の心で正しいものを正しいと言い切っていく。
他の宗教でも「心の財」が積めるけれども、
 
・「広宣流布のための誓願を持つこと」以上の「心の財」はない
・広宣流布の「心の財」を積んだ人は、最高の無上道の人生を歩むことができる
 
との確信で、語り切っていく。
その中に自他ともの幸福があり、人間としての成長もある。
だから折伏するんですよね。

なぜ「誓願を持つこと」が「財」なのか

では、なぜ「広宣流布のための誓願を持つこと」が無上の「財」なのでしょうか。
いろいろな側面があると思いますが、僕の理解では、
 
・自分の人生を「広宣流布(万人の仏性を信じ尊敬するという思想を広げることで世界の平和を実現する)」という大目的のために使うと定めることで正しく生きることができる(人間としてものすごい成長する)
・その誓願を持った上で祈ると本当に祈りがバンバン叶って自分の人生を自由自在に生きられる
 
からだと思っています。
他にもいろいろな視点があるのかもしれませんが、今はそんな理解です。