「現世利益」批判について

現世の利益を重視するのは低い教え?

まず、「現世の利益を重視するのは低い教えだ」という批判について。
個人的には、現実に今この瞬間苦しんでいることについて、何の手も差し伸べない宗教に、どれだけの価値があるのか疑問です。
「この世の運命は変えられない」「死んだ後良くなるはずだ」としか教えない宗教は、諦観に直結し、簡単に人を無気力にしてしまいます。
そのような「人を弱くしてしまう宗教」は、社会にとっても、その人個人にとっても害悪になりかねません。

現世利益を強調するのは新興宗教だけ?

「現世利益」=「新興宗教」みたいなレッテルを貼りたがる人もいらっしゃいますが、合格祈願やら恋愛成就やら、神社なんてそういうお守り山ほど売ってるわけです。
既存仏教の寺院も、この仏像はこういうご利益があって、こっちはこうで、とか細かく分けていたりします。
神主さんも、お坊さんも、皆さん食べていくために必死に営業努力をされています。
月刊住職を読んでみてください。
涙ぐましい努力が垣間見られます。
 
ちなみに、創価学会員は自分たちを「新興宗教」と言われると相当違和感を覚えます。
日蓮大聖人の御書根本という誇りを持っているからです。

創価学会の現世利益は他力本願?

ここが神社などの現世利益と創価学会の現世利益(功徳)の考え方の一番の違うポイントです。
 
・「お守りを買う・祈ることでなにかがうまくいく」「誰かに救ってもらえる」と考えるのは「他力本願」です。
 
・「祈り、行動する中で、現実と格闘し、それを超克していく」と考えるのは「他力本願」ではありません。
 
学会は明らかに後者です。
前者のように考えて、何も行動しない学会員さんも中には当然いらっしゃいますが、学会は「自行化他」が根本。
ただ祈るだけでは何も解決しない、というのは創価学会の中では常識です。
また、現実の問題と苦闘することも、「この問題を解決することで仏法の正しさを証明してみせる」という化他行ですので、それを放棄するのは学会の中では絶対に「正しい信仰の在り方」とは考えられません。
祈り、行動する中で、自身の中の良い生命を湧現させ、闘って勝ち、自身の成長(成仏、人間革命)を目指す、それが学会の信仰です。
「他力本願」とは対極にあると考えていただいて間違いないと思います。

創価学会は現世利益だけを追求している?

そう見えてしまう学会員さんもいらっしゃるだろうとは思います。
しかし、池田先生の著作や体験談を読めば、そうではないことは一目瞭然です。
 
現実に、今苦しんでいる問題を乗り越えることは追求しますが、「他人よりお金持ちになりたい」とかそういった即物的な欲望を叶えようとする浅ましい人はあまりいないように思います。
 
「自分のことに必死になっていたが、相手を思って折伏に挑戦する中で、人の幸福を祈れる自分に変わることができた、人間革命できた。そのなかで、自身の問題も次々解決していったり、小さなことで悩んでいたんだなと俯瞰できるようになったりした」これが学会でよくあるパターンです。
 
「現世利益だけを追求している」というのは学会のごくごく狭い一面だけを見た、見当違いの批判であると言えます。

「「現世利益」批判について」への6件のフィードバック

  1. 退会組ですが、確かに、創価学会の信仰で数々の功徳はあり体験致しました。破門前は。本尊が変わり、活動から遠ざかり、戒壇本尊を受持の対象としない。で不信感極まり、退会、大石寺側に行ったが、今まで大石寺教義に疑問を持たなかったが、大石寺の教義の変遷、戒壇本尊偽作、日蓮本仏後世の偽作など欺瞞がわかり、脱講。個人信仰しています。釈迦本仏、曼茶羅本尊、日蓮上行菩薩と信じています。創価学会員の皆様に幸多き事を願います。今は創価学会、日蓮正宗にも反感はありません、帰るつもりもないですが。

    1. コメントありがとうございます。
      教学には多くの立場がありますし、文献学的にも様々な仮説があり、学問的には真偽を完全に証明できないことも多いと浅学な私でも理解しているつもりです。
      T様も真摯に真理を追究された結果の結論かと思います。
      しかし、さらに求道の炎を燃やしていただいて、願わくばその先に、また学会と交わる機会があればと思います。
      多様性の時代ですから、別に組織に属さなくてもよいのではないでしょうか。
      差し出がましいことを申し上げました。
      めっきり寒くなりましたので、お風邪など召されませんよう、ご自愛ください。

  2. 退会組です。
    1、現世御利益をくれる宗教は個人的に大嫌いです。自分には功徳を絶対くれるなと祈ってました。

    2、しかし世界には不幸な人は多く、例えば飢餓に苦しむ人にあと一杯の食を与えてあげられるなら、個人の好き嫌いは関係ありません。それが学会なら死に物狂いで実践する人間的義務があると考えます。問題は、ほんとうにその力があるかどうかです。
     正統派科学哲学(実証科学で制度化されているもの)では、ただしいとされるものは「意味検証可能性」(言葉が検証できるように構成されている)と「実験を通した検証」の2つを満たさなければなりません。
     学会にあるのは、バイアスかかりまくりの体験談だけ。大学もあるのに統計的手法も疫学的手法も使いません。言葉の意味も検証可能なように構成されていません(無意味という)。これでは実際に力があるのかどうかの検証以前です。
     他方で学会が本当に力があったら、起こりえないはずの反証例はいくつも知っています。
     なら、大嫌いなことを無理してやる必要はない、と退会させていただきました。

    3、個人的な趣味では、「仏教もキリスト教も同じ山を別の入り口から登るもの」「仏法の教えや実践はキリスト教徒にも有用」「禅は本来全く役に立たない」「弥陀は依り代」これらは、あちらの高僧の言ですが、こちらのほうにひかれますね。

    1. gkrsnamaさん、コメントありがとうございます。
      不勉強の為、「科学哲学」という言葉を初めて知りました。Wikipedia( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%93%B2%E5%AD%A6 )を見ますと、「科学哲学の目的の一つは、科学というものの持つ限界を人々に自覚させ、科学に関して人々が持っている誤解を解くことである。例えば『科学は、いかなる事象をも取り扱える一つの確固とした学問体系である』などと見なすことは誤解である。また例えば 『科学が与える世界像こそ客観的世界の真の姿である』などと考えるのも誤解である。」とあり、科学的手法の限界をきちんと認識することが目的の一つであるように読み取れます。
      gkrsnamaさんのおっしゃる「『意味検証可能性』(言葉が検証できるように構成されている)と『実験を通した検証』の2つを満たさなければなりません」というのは、どちらかというと「科学的手法」の話をされているのかなと見えますので、Wikipediaの説明とは多少ニュアンスの違いがあるように見えますが、「『正統派』科学哲学」とは別の話なのかもしれません。科学哲学については全くの素人ですので、これ以上の言及は避けたいと思います。
       
      さて、gkrsnamaさんが何を求めて信心をされていたのかを推測させていただきますと、個人の利益ではなく、飢餓に苦しむ人たちなどの悲惨な状況をどうにかするのが目的だったように読み取れます。非常に理想主義的な、崇高な生き方を目指されているのだろうと思います。なかなかそのような方はいらっしゃいませんので、本当にすごいことです。なかなかできることではありません。(皮肉で言っているのではなく、本気です。)
      一方、そのための手段たる勤行唱題あるいは学会活動のいずれかもしくは両方が大嫌いであり、かつまた、ただの「nが1でしかない『体験談』」の集積は科学的とは到底言えず、なんの証明にもならない、むしろ「信心するだけで解決するならこの事象はどうなのだ」と突きつけられる事例を少なからず知っている、という事かと思います。
       
      そもそもnが1でしかない症例報告(医療者ですので、なじみのある症例という言葉を使わせていただきます)は、そもそも統計学的な解析の対象にはなりえませんので、「学会の信仰に力がある」ということが「統計学的に確からしい」とは言えないことは事実です。その意味で、「(統計学的な)検証以前」というのはその通りです。
      「統計学的・疫学的に確からしいという結果が出ていると聞いたから入信したが、そうではなかったため退会した」ということであれば、正しい姿勢と思います。
      (違う理由で入信された場合、または二世の方でしたら、すみません、もうちょっとあとで言及しますので最後まで読んでいただければ。)
       
      一方で、臨床でよく用いられる、エビデンスのしっかりした薬でも、100%の症例で良い効果が出る、ということはありません。
      必ず副作用が起きる症例が一定数ありますので、「必ず効く」ということはありませんし、そのことが「薬には力がない」ということの証明にはなりません。
       
      薬が効かない理由には遺伝子の違い、どの遺伝子のスイッチが入っているかや体内の代謝酵素の違いなど、さまざまな理由がありますが、祈りが叶わない理由にもさまざまあるように思います。
      「祈りが叶うかどうか」を決めるのは、認識可能な物理的な法則ではないであろうことはご理解いただけると思いますが、「叶うか叶わないか」が科学的手法で観察の対象とできるもの「以外」によって決まっている可能性を否定しないのが、むしろ「科学的な態度として正しい」、と言えるように思います。
      そもそも(gkrsnamaさんがおっしゃっている通り)、いろいろな意味・レベルの「叶う」があり、一意な定義ができません。
      とすれば、「学会が本当に力があったら、起こりえないはずの反証(=学会の信仰に力がないという証明ができる症例)」というものの「科学的な意味での確からしさ」もだいぶあいまいになるように思えないでしょうか。
       
      意地悪な見方をすれば、gkrsnamaさんは「科学」を「大嫌いなことをしたくない」理由として援用したようにも見えます。もちろん、それが「悪いこと」だとは思いません。いやなことを無理にすべきではありません。精神医学的に言って、(特に学会員がついつい陥りがちな)「○○すべき」という「べき」に縛られた生活をしてはいけません。「べき」は本当に猛毒で、人生を簡単にむしばんでしまいますから、「大嫌いな『べき』から避難するために、『脱会』という手段が必要だった」ということであれば、それは正しいとさえ思います。
       
      ただ、脱会した理由が「べき」からの避難だったとすれば、「科学が理由」と認識していてはいけないように思います。前提条件の認識を間違えていては、正しい判断ができないからです。単に「べき」からの避難が目的だったのであれば、たとえば入会はしないが仏法の勉強もしくは唱題はする、などの代替案が出てきます。
       
      「仏教もキリスト教も同じ山を別の入り口から登るもの」「仏法の教えや実践はキリスト教徒にも有用」というのは、実は学会員にとって、非常になじみのある発想です。法華経は本来、全ての教えを素晴らしい教えとして肯定しています。そして、それらの価値を引き出して、最高に活かすのが法華経である、という立場です。池田先生も、創価学園や大学では仏法者の話はほとんどしません。他宗教の偉人の話ばかりされています。その意味で、gkrsnamaさんの認識は、まさに正鵠を得ていると思います。
      「他の教えを活かす立場」については、松岡幹夫さんの本が参考になると思います。仏教とお金( https://www.amazon.co.jp/dp/4434231723 )あたりは読みやすくていいかもしれませんね。中古なら600円くらいで買えます。
       
      どういう形であれ、gkrsnamaさんがまた日蓮仏法、なかんずく学会に「楽な形で」縁することができるように、心より祈っております。
      何かあれば、いつでもコメントいただければ幸いです。

  3. お答えありがとうございます。お答えに、少々驚愕している次第です。

    私がいたころの話(20年以上前)ですが、確かに東方哲学研究などには、キリスト教の正の部分への言及や対話の必要性もあったのですが、多くの学会員や文書は単純に敵視し嫌悪するだけでした。しかし、例えば当時のヨハンネスパウルス法王は大変に立派な方だったのです。(達成したことは池田さんよりはるかに偉大です。マルクス主義を平和裏に終わらせ、諸宗教の和解を殆んど達成した。)また当然に世の文化の大半は、日蓮正宗(当時)とは関係ありません。日蓮正宗にない素晴らしいものがたくさんあるのです。

    そういうものを、「敵」「けがれている」「謗法」とぶった切る態度が耐えられませんでした。

    これは、わたしを人間関係でがんじがらめにして、会員にさせた同級生に顕著でした。親から受け継いだのか「折伏経典」そのもの。信心を熱心にやれば、仮にそれが悪い願いでも叶わざるなしという。宝くじや馬券も当たるという。また、浄土教や禅に現実にはあり得ない悪口雑言を投げつける。ああいうのにはぞっとしていました。(親鸞や道元の長所を認めたうえで、さらにその点すら乗り越えるべきなのですが、そういうのはなく、謗法をしたら罰が当たると言うばかり。)

    しかし、私は「断れない性格」のゆえに巻き込まれてしまい、入ったら入ったで男子部の世俗性に参っていたのです。男子部は、まるで週刊誌、まるで営業マン(活動の後に酒とナンパばかり)。結果、学会のほとんどすべては体質に合わず、ひどく苦しみました。今思うと、それでも紹介者に悪いと思ってやめられなかったのですね。

    (私は性形而上で、紹介者は二乗といって一定認めてくれていましたが、男子部ではまだそんなガキみたいなことをやっていると思いっきりバカにされました。ええ、今でも社会に食われずに形而上やってますよ。)

    私は辞めるために、可能な限り強力な武器を必要としたのです。そのため徹底的に客観的な理屈を考えました。でももし、学会員が貴殿のような柔軟に考えられ、広い視野を許容するなら、私は拒否感をもつことはなかったでしょう。辞める必要もなかったでしょう。仮に辞めても、協力できたと思います。

    なお、わたしの紹介者は、奥さん子供さんや親御さんに大迷惑をかけ、わたしからの借金も踏み倒し、そのまま消えてしまいました。これは先の反証例には入っていませんが。

    でも、安倍政権がマトモナのは公明党のおかげが大きいと思っていますよ。

    私が言及した科学哲学は「論理実証主義」です。哲学水準ではすでに乗り越えられているのですが、現実の科学実践を見ていると、今なお寄るべき規範として論理実証主義が制度化されているようです。

    1. 私の返信を真摯に読んで下さり、さらにはオープンな心で評価していただき、大変にありがとうございます。とてもうれしいです。
       
      ヨハンネスパウルス法王の功績については、存じ上げませんでした。本当にすばらしいですね。もちろんそれは、「個人だけの力」ではなく、背景に巨大な宗派の影響力があってのこととは思いますが、それでもものすごいことだと思います。池田先生の人類に対する貢献との比較については、後世の歴史学者がすべきことと思いますので、私は言及を避けます。ただ、192カ国地域への布教という仏教史上空前の歴史を打ち立てられたこと、他宗教の指導者たちとの精力的な対話などの価値については、政治的な側面だけで比較してしまうとどうしても片手落ちになってしまうかなという気はいたします。
       
      さて、昔は時代もあって、たしかにかなり過激な会員さんも多かったのかもしれません。
      ただ、池田先生はそのようが学会が嫌いで、戸田先生にそのことを告げたところ、「君が変えていきなさい」と言われ、その後の変革を経て、今の学会の形になった、という話を何回も読んだことがあります。(出典を示すことができず、申し訳ありません)
      これは私の個人的な意見ですが、かつては反知性的なメンバーも少なからずいて、その流れを池田先生は必死で変えてこられたという事だろうと思います。
      実はその「反知性的な姿勢」の元凶は、宗門(もしくはその僧侶たち)だったのではないかと思っています。
      「ベートーベンの第九を歌うことは謗法だ!」といった宗門による学会批判が、非常に反知性的だったことがその一つの根拠です。
       
      宗門のくびきから離れたことで、ようやく池田先生が自由に組織の在り方を変革できた、ということなのではないでしょうか。
       
      排他性についてですが、そもそも大聖人が他宗を厳しく責められたのは、それらの宗派が法華経を謗ったからで、それらの宗派の依経である経文を否定されていたわけではありません。御書には法華経以外の経文や、仏教以外の話があまた引用されており、それらを「活かして」門下の人々を激励されているわけです。
      大聖人は、法華経を謗る行為が大変な悪業になってしまうため、これを諫めなければならないという慈悲の心から、命の危険を顧みず、言論戦で挑まれました。必定、言葉の勢いとしては強くなりますが、根底には相手に対する大慈大悲があり、相手が刀で切りかかってきても、(少なくとも文献的に知られているかぎりにおいて)暴力で対抗することは一度もありませんでした。
       
      翻って、学会以外の信仰をバカにし、なんでも「謗法」と切って捨てれば事足れりという、謙虚さも慈悲のかけらもない姿勢は、とても大聖人の精神を真摯に学んでいるとはいいがたいものです。
      また、池田先生が他の宗教を信仰する偉人の話をされていた時、本当に師の心を知ろうとしていたのか、はなはだ疑問です。
      一面において、厳しく言えば「面従腹背」と言ってもいいかもしれません。
      私からすれば、「池田先生の弟子」を名乗っていいのか、真摯に省みていただきたい方々と思えます。
       
      gkrsnamaさんは大変な方々の中で苦労されてきたのですね。本当に頭が下がる思いです。
       
      形而上、素晴らしいと思います。
      そもそも大乗仏教的には、「空」という難解な概念があるわけで、形而上をバカにするなど、とんでもない暴挙です。竜樹菩薩に謝れと声を大にして言いたいです。とても考えられません。
       
      今、男子部で活動後にお酒を飲むことはまずほとんどないと思いますし、ナンパなどは絶対にありえません。非常に紳士的な人が多いです。
      gkrsnamaさんのように、学問的に取り組む方は、今ならとても尊敬されると思います。
       
      また何かあれば、コメントしていただければ幸いです。よろしくお願いします。

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