創価学会の幹部のあり方

新・人間革命の勝利島4に「学会の幹部は、仏子である会員の方々に仕え、皆が幸福へ、一生成仏へと進めるように、応援し、手助けしていく立場である。未来にわたって、これが、学会の役職の考え方でなければならない。苦労して広宣流布を担う立場であるからこそ、幹部として信心に励む功徳、福運は大きいのである。」とありました。
「仕え」るんですよ。
偉ぶったり、命令したり、上からものを言ったりするのは先生の指導に反するわけです。
また、一人で信心していたらできない苦労をさせていただくことによって、功徳を頂ける、そういう立場なわけですから、感謝の気持ちで取り組まないといけない。
愚痴だらけで活動したって功徳なんてあるわけないですよね。
人間として成長してないですもん。
(逆に言えば、最大の功徳が「人間としての成長(人間革命)」であるわけですが…)
 
「無理と信心強盛は別」という先生の指導もありますので、健康第一で、無理は慎むべきですが、根本はそういう姿勢でなければならないと思います。
 
逆に、幹部は自分の振舞でもし、会員さんが学会から離れてしまうようなことがあったらとんでもないことだ、と自分を常に振り返らなければいけないと思います。
その中で浅ましい傲慢な振舞は消えていき、人間として成長することができるのだろうと思います。
 
新・人間革命の勝利島5には「山本伸一は、幹部との人間関係で活動から遠ざかってしまったという話を聞くたびに、激しく胸が痛んだ。」とあります。
池田先生が学会の幹部に対してかなり厳しい叱咤をされる、というのは有名な話ですが、それはその胸の痛みから来ているのだろうと思います。
尊い会員を守らなければならない、幹部に悪業を積ませてはならない、その責任感が、そうさせるのではないでしょうか。
 
「学会の役職は責任職」、本当にその通りと思います。

創価学会とエホバの証人の違い

創価学会とエホバの証人、どこが違うのかを一つ一つ、思いつくままに書いていきたいと思います。
エホバの証人の方々10人くらいとガチで話してから書いてますんで、多分エホバの証人の方々からみても、ある程度納得いく内容になるんじゃないかと思っています。

【カルト性】

創価学会

正直に申し上げて、学会員にもイタイ人は結構な数います。
800万世帯とかいれば、そりゃぁいます。
で、「創価 カルト」とかで検索して出てくるのは、このイタイ人たちのエピソードばかり。
私などが読むと、「これはひどい。なんでもっと人間的にふるまえなかったのか。先生の指導ちゃんと読んでんのか。土下座してこの方(被害者)に謝れ! 池田先生の顔に泥を塗りやがって! 許せん!」と怒りに震えることもあります。
 
また、私自身、残念だなと思う幹部も割と身近にいたりします。
「慈悲」とか口では言ってるけどこの人全然わかってねーなとか、こいつ保身だけじゃねーかとか、こいつ自分の理解を他人に押し付けようとしてるだけの自己満オヤジじゃねぇかとか、先生の「学会員は常識豊かでなければならない」って指導お前どう読んでんの? とか。
もうほんと、そりゃこんだけ人数いればいますよ。
 
でもそれって、「中心者がおかしい」ということとは違うわけです。
創価学会の池田大作名誉会長には
 
・従藍而青(じゅうらんにしょう)の話を通し、弟子に自分を超えろと言い続けておられる(過去記事参照)
・宗教に係わらず名著をたくさん読み、勉学に励み、自分の頭で考え、行動しろと指導されている
・社会の繁栄を築く人材になれと指導されている
他宗教の方と積極的に対談し、多くの対談集も出版されている
 
と、多くの点で一般的なカルト集団の中心者たちとは全く正反対の特徴をみることができます。
 
学会の組織にしても、カルト教団のような細かい生活上の規定などは一切ありません。
拝みさえしなければ、神輿が出るようなお祭りにも参加していいことになっていますし、他宗教の冠婚葬祭にも参加できます。
クリスマスプレゼントを子どもにあげている家も多いでしょう。
そういうところはかなりゆるいです。
 

エホバの証人

さて、「エホバ カルト」で検索すると、圧倒的に統治体(エホバの証人、ものみの塔の中心メンバーたち)がヤバい、という情報が多いわけです。
もちろん、末端の信者の方々の行動が怖かった、というエピソードもあるにはありますが、私などから見ると、「その信者の方々もある意味で被害者だな」と思える事例が多いのです。
 
エホバの証人のカルト性を象徴する特徴は
・もうすぐハルマゲドンが来る、と終末感・不安感を煽って信仰に励ませる
・統治体も人間だから間違うこともある、としながらも、絶対服従を強いる(従わなければ「排斥」)
・「排斥」されれば、コミュニティの人だけでなく、家族とも話ができなくなるという非人間的な制度
・コミュニティの外はサタンの支配下にあるとして、あまり接するな、と教え、情報統制を敷く
・特にエホバの証人をやめた人のブログなどは、絶対に見てはいけないと厳しく言われている
・大学などの高等教育の非推奨(自分の頭で考えると組織を抜けてしまうからと言われている)
・組織から離れる時間・期間を作らせないため、就職を推奨しない
・必然的に貧困状態となるが、何かあればすぐに社会のセーフティネットに頼ることになるため、社会にとって負担になる
・仕事を通して社会に貢献しようという息吹はほとんどない
・他宗教の冠婚葬祭には参加できない
・クリスマスも楽しめない
といったところでしょうか。
 
一言で言えば、エキセントリックな末端(アホ幹部含む)が問題になるのが創価学会、中心がカルトそのもののエホバの証人、と言えると思います。
 

【困難に直面した時】

創価学会

信心強盛な創価学会の会員は困難に直面した時、「よっしゃこっからだ! 必ず変毒為薬してみせる! 同じ苦しみを味わっている人たちの希望になってみせる! 打ち勝つ姿を持って仏法の凄さを証明してやる!」とむしろ奮い立ちます。
もちろん人間ですから弱くなる時もありますけどね。
でもまた、日蓮大聖人の御書や池田先生の指導を読んで、南無妙法蓮華経と唱える中で力を得、強くなって立ち向かっていきます。
その中でなんらかの形で結果を出し、人間としても成長していきます。
私の理解では、それが「人間革命」ということです。
 
・参考:創価学会公式サイト|変毒為薬
 

エホバの証人

エホバの証人は、困難に直面すると、全てを神に任せ、慰めを得るために聖書を読みます。
地上のパラダイスにはそのような困難はないのだから、と。
(たぶん)挑戦はしません。苦闘もしません。
 
・参考:ものみの塔オンライン・ライブラリー|エホバの力から慰めを得る
 
私としては、大変歯がゆい!
一緒に頑張ろうぜ! 未来は自分の手で変えられるよ!
 
一言で言えば、現実の変革と人間的成長を目指すのが創価学会、現状に甘んじて慰めを求めるのがエホバの証人、と言えると思います。

障害にも意味を見出す

今日お会いしたクライアントは、生まれつきの障害を持つ方でした。
詳細は書けませんが、障害に負けず、むしろそこに意味を見出す生き方を、信心で獲得されておられました。
これが仏法の凄さであり、創価学会の強さだなぁと思います。
 
障害があるかどうかと、幸せに生きられるかどうかは関係ありませんね。
「人を強くする宗教」の真骨頂と思います。

創価学会の信心が「師弟直結」である理由の一つ

人数多いんで、単純にクズな幹部がどうしても結構な数でいる。
私の周りで信心から離れちゃった人たちは、みんなそういう幹部の振る舞いが嫌になって離れてる。
池田先生が嫌で、なんて人はいない。
師弟直結、池田先生直結でないと、そういう幹部のクズな振る舞いに惑わされて「学会ってなんてヤバいところなの!」となるから、「池田先生直結」という意識でなければならない。
 
官僚主義がはびこったら組織は死ぬ。
そのことは池田先生自身、何度もおっしゃてるし書いておられる。
「幹部が言うことは絶対」ではないし、そんな意識の幹部いたらホント幹部失格。
池田先生の指導なんか全然読んでない&分かってない。
 
役職者がどんなにクズでも、「あぁこいつ池田先生の指導ちゃんと読んでねぇクズだな」とちゃんと分かればいい。
師弟直結、池田先生直結ってのは、そういうことだと思ってます。

職場の部下が創価学会員だったときとエホバの証人だったときの対処法比較

部下のパフォーマンスが落ちた時の対処法です。
 

一般的な確認事項

・ちゃんとご飯食べているか
・気持ちが落ち込んでないか
・ちゃんと眠れているか
・家族に何かあったとか、そういうことがないか
・体調が悪ければ病院に行くように
 
 こういうのは地味に大事ですね。
創価学会員もエホバの証人も人間ですから。
 

創価学会員な部下の場合

・「最近ちゃんと唱題してるのか」
・仕事は定時で上がってるのに疲れてたら「学会活動ばっかりやって職場でダレちゃったら本末転倒でしょ」
・やる気がないだけっぽかったら「職場で実証を示すんじゃないの? 池田先生の指導読んでる?」←うつ病の場合は追い込むことになるので注意です。
 
 うつ病でなくて、かつ、ちゃんと信心がある創価学会員なら、愛のある上司にこう言われたら奮い立つと思います。
たぶん、ですけど。
 

エホバの証人な部下の場合

本格的に証言活動に励もうと決めてしまった可能性があります。
基本的に「水曜日残業する可能性があるような正社員にはならない方がいい」とか言っているので、うかうかしてると退職されたりする可能性もあるかも?
「デキる部下」が欲しければ、ものみの塔から遠ざけることが必要じゃないかと思っています。
 
どうしたらいいかは私も模索中ですが、いかにいろいろな人とつなげて、いろいろな視点を持たせてあげられるか、勉強させてあげられるか、それを通じて盲目的に「統治体」という中心組織の言うことに従うのではなく、きちんと疑問を持てるようになるだけの見識を持たせてあげるか、が勝負なような気がします。
カルトは対話を嫌うのが特徴。
逆にいろいろな人とつなげてあげれば、カルトから抜け出すきっかけを与えてあげられるかもしれません。
 
エホバの証人たちは、組織の外の友人をたくさん持たないように指導されています。
エホバの証人のコミュニティ以外はサタンに支配された世界だから、という理屈ですが、実態は
 
・信者に見識を持たせないで組織に疑問を持たせないように、抜けさせないようにする
・エホバのコミュニティ以外に居場所を作らせないことで、「排斥」の恐怖を増幅させる
 
ことが目的と思われます。
 
逆に、エホバの証人以外の居場所を作ってあげれば、恐怖に支配されず、自由に考えることができるようになるかもしれません。
あなたの会社がその居場所になってあげることができれば、エホバの証人の方々の「真摯さ、従順さ、落ち着いた物腰、欲のなさ」を十二分に発揮してもらえて、いい社員ゲット! になるかもしれません。
 
がんばりましょう。

職場の学会員がDQNだったときの対処法

私自身創価学会員なので、職場のDQNな創価学会員に迷惑した、という経験がありません。
ですが、なんとなくこうしたらなんとかDQNじゃなくなるんじゃないかということを書いてみたいと思います。
具体的な事例がありましたら、コメントいただければ幸いです。
最大限、方策を考えて記事にします。
 

仕事をしないで会合ばっかり行っている

 これは実は学会員にとっても永遠のテーマですね。
私自身は戸田先生の指導通り「仕事は3人前、信心は1人前」が当然と思っていますが、幹部になっちゃったりすると「これは外せない大事な会合」みたいなのがあるっぽいです。
逆に言えば、幹部になるくらい学会内で鍛えられているはずなので、エキセントリックな行動で人を困らせるような超DQN率は高くなさそうな気もします。
 
「『仕事は3人前、信心は1人前』なんじゃないの?」
と言って牽制して、
「本当に大事な会合以外は仕事を優先して!
本当にどうしようもないときはできるだけスケジュールの融通をする。そのかわり短時間で集中して仕事をこなす訓練をすること!
仕事で実証を示してみせろ!」
とでも言えば、仕事のアウトプットが早くて残業させないで済み、残業代をセーブできる優秀な部下が出来上がるかもしれません。
 
人件費を削るには、残業代をセーブするのが一番です。
従業員の健康管理にも役立ちます。
サービス残業をさせているブラック企業の方は、早く状況を改善しないと労基署に訴えられて痛い目にあいかねませんので、早めの対策をお願いします。
 

折伏される

 「業績が○○だけ上がったら10分(時間はご随意に)だけ話を聞いてやる」でいかがでしょう。
ホントに上げてきたら、少しだけ聞いてやってください。
時間が過ぎたら「約束の時間。また今度ね」でいいです。
食い下がってきたら、次の課題を出したらいいんじゃないでしょうか。
10分話を聞いてあげるだけで業績が上がる従業員の出来上がりです。すごいお得!(笑)
 
業務時間内に折伏してくるDQNがいたら、きっちり
「そういうのは非常識」
「今は業務時間内。君は会社の給料を盗んで学会活動をしようというのか」
「池田先生はそういう非常識なことをしろと指導しているの?」
「そういうのは『法を下げる』って学会員の人がブログで言ってたよ」
と言ってやってください。
ホントの話です。

聖教新聞の購読を頼まれる

これは男子部にはあまりなくて、40歳以上限定ですかねー。
2つ手が思いつきました。
 
・「贈呈」ならいいよ。→頼んできた人がお金払ってくれる方法。コストは新聞を捨てる手間だけです。できれば1面だけでもちらっと目を通してほしいですけど…。
 
・業績が上がったら1か月だけとってやる→2000円弱の出費でたぶん一生懸命頑張ってくれます。お得!
 

選挙を頼まれる

んー、「分かった! 選択肢に加えておくわ!」でいいと思います。
もちろん、できたらホントに応援していただきたいですけども。
 
「お前その仕事ぶりでよく頼めるね」とかは、相手のキャパ次第ですかね…。相手を選びます。キャパがある人材なら、すごく伸びるかもしれません。
 

行動がエキセントリック

内容にもよりますが、ひどい場合は学会内でもエキセントリックな人かもしれません。
すみません。創価学会のせいじゃないかもしれないです…。
創価学会員じゃなくてもエキセントリックな人、いますよね?
「困った人」を救うのが宗教なもんですから、エキセントリックな人、創価学会の中にも一定数います…。

【エホバの証人】突き抜けるとそうなるのね

またエホバの証人の人に話を聞いてきました。
もうね、駅前とかに立ってる夫婦、ほとんどが子どもいません。
今日の人もそうでした。
なんでかって聞いたら、
・今の子の腐った世の中で子どもが生まれてもかわいそう(神の楽園ができたら子どもを作る)
・子どもができたらそのために証言活動の時間を減らさなくてはいけない
・結婚するのは証言活動をしやすくするため
だそうです。
もう! だめだよそれじゃ!
とも思いますが、そういう選択も尊重されてもいいとは思います。
他人がどうこう言う話じゃない。
 
そしてこんな発言も。
・環境破壊とか、もう人間がどうこうできる範囲を超えているから、神にどうにかしてもらうしかない
(私にとっては)新しいタイプの神頼み。なんか斬新。
根拠は聖書。
いや、やれることはしようよ。(してるのかもしれないけど)
 
どんなに統治体の予言がはずれても、もういいんだそうです。
ハルマゲドンがたとえ1000年後だとしても、エホバの証人の正義が証明されればそれでいいんだという話でした。
「もう何がなんでも、自分の信じてきたものが正しいと信じたい」という心理もあるのかもしれません。
でも、「信仰の意味」を「死への準備」に限定して考えた場合、あの方はある程度それをされているのであり、また「信仰に人生を捧げきっている」という点で、立派にエホバに「南無(帰命)」されていて、その信仰の篤さは敬服に値すると思います。
心からそう思います。
 
ただ、「統治体は近々ハルマゲドンが起きると言い続けているけれども、それは間違っているかもしれない」ということを彼は明確に意識されていたわけで、私はその点を指摘すべきでした。
そう。
統治体は人間の集まりですから間違うのです。
その決定を「絶対」のように扱うのも間違っています。
統治体が決めた「排斥」も絶対であってはならないし、「絶対である」と主張するのは統治体の傲慢です。
お題目をあげていてそう思いました。
私はあの人たちが好きなので、なんとかして気付いてもらいたい。

幸せとは

心理学者のMartin Seligman(マーティン・セリグマン)さん(アメリカ心理学会の元会長)の講演の記事で面白いのがありました。
http://logmi.jp/26574?pg=1
http://logmi.jp/26721
「快楽」より、「何かに夢中になること」より、「人生に意味を感じられること」の方が、ずっと幸福を感じるように人間はできているという話。
誰かのためになにかできる、それを通して自分の人生に意味を見つけられる、というのはものすごく大切なことですよね。
日蓮大聖人の御金言にも「人のために灯をともしてあげれば、自分の前も明るくなるようなものである」とありますが、利他的な行動を起こさなければ、本当に自分の人生を幸せなものにすることはできないと。
 
私の10余年の臨床経験からも、それは如実に感じています。
70,80歳代になって幸せに生きている人は、例外なく誰かのために人生の幾分かを使って何かしています。
自分のためだけに生きている人は、本当にさみしい老後になっている。
子どもがいるとかいないとか、裕福かそうでもないかはそれほど関係しません。
それはそれは峻烈。
 
誰かのために、何かできることをする。
折伏に限らず、今後もやれることをやっていきたいと思います。

映画「ルンタ」を観てきました。

チベットでは、中国政府による非常な抑圧、殺戮、拷問が繰り返されています。
その蛮行に対し、チベットでは焼身自殺による抗議が行われているわけですが、そのバックグラウンドを丁寧に掘り下げている映画「ルンタ」を観てきました。
 
チベットの人たちは民族の言葉を奪われ、信仰を奪われようとする中で、絶望の淵に追いやられながらも、なお非暴力を貫き、相手を傷つけることを拒否し、最終的に焼身抗議の道を選んでいました。
2015年3月の時点で、141人もの方が、焼身による抗議を行っています。
平和な日本でのうのうと信仰している僕らと違い、一身を灯にかえて自由と民族と国と信仰を守ろうとしている彼ら。
それはたかだか19歳の女の子だったりするわけです。
あまりにも切ない。悲しい。
 
妙法蓮華経に南無(帰命)すると毎日唱えながら、そこまでの決意をしていたか、と自身に問いかけるとき、一種の恥ずかしさを禁じえません。
とともに、日蓮大聖人の「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」とのご金言を拝するとき、チベットの方々の「他者を傷つけまい」とするその高潔な精神に、仏法者としての一つの勝利の形を見る思いがします。
 
自分に何ができるのか。
この命を燃やし、少しでもこの世界を良くしてから死に逝かん、それまでは岩にかじりついてでも生き抜いて、動き抜いてみせると決意する時、どうしていくべきなのか。
 
創価学会員たるもの、問題に直面したときはご本尊の前に端座し、その命をご本尊にぶつける思いで祈り、行動を起こすのが流儀。
彼らの苦悩を思いながら、文字通り泣きながら、「この世界を少しでも良くさせてください、自分の使命を果たさせてください」と唱題しました。
大丈夫。
「社会のために」と本気で祈った祈りで、今まで叶わなかったことはありません。
明日からまた、日々祈りを深め、決意しなおしながら進んでいきたいと思います。
さしあたっての闘い方はもう見つけました。
学園生の底力を出すときは、今だ。

エホバ対策サイトの一つ

「エホバ 聖書 違い」で検索して、エホバの証人 統一協会 対策香川ネットさんのサイトを見つけました。
かなり古そうなサイトですが、訪問者が僕で5530人目って…。
もったいないなぁ。

このサイトによると、ものみの塔は、1969年に「ギリシャ語王国行間逐語訳聖書」というのを発刊していて、これは今でも(?)エホバの証人の方にお願いして注文すれば取り寄せることができるそうです。
この聖書は比較的聖書に忠実に訳しているそうで、これと比較することで、エホバの証人の方々持っている聖書が意図的に「改ざん」されてしまっていることが分かるそうな。

その他にも、なんでエホバの証人になったらダメなのかとかを端的に書いておられます。
ちょっとエホバの証人について勉強し、中の人と話しただけの僕ですが、まぁそうだよね、という内容。

中の人をいかにスムーズに、納得してもらったうえで抜けさせるか、という点については、まだまだ研究が必要な気がします。
結局のところ人間は感情の動物ですからね、理屈で破折するだけじゃダメなんです。
関係が悪くなるような言い方は絶対にしてはいけないですし。
相手が防衛線を張っていない、明後日の方向からすとんと相手の懐に飛び込めるようになるにはどうしたらいいのか…。
相手の幸せを思う祈りから始めなければ。